笑う



 夏祭りの、夜の部の準備が進む公園。私と前妻は二人、少し距離をおいて公園のベンチに腰かけていた。にぎわう人通り。私は時折目の前を通り過ぎる区内の人とあいさつを交わす。


 誤解を生みかねないシチュエーションだが、こういうものは人前で堂々としていたほうがいいのだ、と自分に言い聞かせる。どちらにせよ、この前妻との予期せぬ会合については、妻に報告するつもりであった。


 とりとめのない会話。こうして改めて前妻と言葉を交わすと、自分でも驚くほど彼女との思い出を忘れている事に気づく。前妻がいろいろな思い出話をする一方で、私は「ああ」「うん」「そうだったっけ」などと、まるで呆けたような反応しかできないのである。


 あの時から10年。今の妻に出会い娘に恵まれた、幸福な人生だ。心の傷は癒えたと信じていたが、癒えたのではなくきれいさっぱり忘却することで、私は心の均衡を保っていたのだ。


 結局私は、前妻との会話がうまくかみ合わないまま、あの日の話をする羽目になるのであった。


「例の彼とは、まだ付き合いがあるのかい?」


 知りたくもなければ、知ったところでどうしようもない質問。だが今の私にとっては、前妻との思い出の明確なスタート地点はそこしかなかった。他の事は本当に、とんと思い出せなかったのである。


「知らない」

「別れたってこと?」

「んーというかね」


 人差し指を唇に当てて小首をかしげる前妻の動作に、私は違和感を感じた。私と結婚していた当時の、キャリアウーマンだった前妻は、そのような、いわゆる動作を嫌っていたからである。


「知りようが無かったの。私刑務所に入っていたから」

「えっ……」


 前妻は、にへらと笑った。見たことがない顔だった。


「あなたと別れた後、相手に妊娠した子供の認知を断られてね。その後予想よりずいぶん早く産気づいちゃって。助けを呼ぼうと思って携帯を探したんだけと……ほら私って、片付けが苦手でしょう。あなたが出ていってから、家はあっという間にゴミ屋敷でね。携帯がなかなか見つからなくて。結局、お腹からのよ。でねえ、なんかパニックになっちゃってねえ」


 前妻は、にへらと笑った。見たことがない顔だった。


。でも上手くいかなくて。だからほら、あなたが使っていた、なんていうんでしたっけ……あのステーキのお肉とかを叩いて柔らかくするやつ?あのハンマーみたいな。んだけど、それでもダメで。どんどん血は流れ出るし、死にたくなかったから外に出て救急車を呼んでもらったの。それでね……」


 前妻は、にへらと笑った。見たことがない顔だった。


 そこから先、前妻が何を話したのか、私にはほとんど記憶がない。殺人と死体遺棄で逮捕、実刑……家族から絶縁……刑務所内でリンチされ……出所、生活保護……ショッキングな単語だけが細切れに、私の耳に滑り込み続けた。嘘を付くなと笑い飛ばすには、あまりに具体的すぎる話だったことだけは憶えている。


 前妻は非常に優秀であり、社内の信用も厚く、その将来は盤石と言ってよかった。私も一時は彼女に追いつこうと四苦八苦したものの早々に白旗を挙げ、彼女の生活面のサポートに徹するようになっていった。周囲からすれば私の存在は不分相応、私の方こそが彼女の人生における異物だったのである。


 私がある意味迷いなくできたのは、私一人がと消えたところで、前妻の輝かしい人生にさざ波一つ起こすことはできまい……という、なんとも情けない確信があったからである。


 私の知らない過酷なの人生を、前妻はにへらにへらと笑いながら語り続ける。私はほとんど耳を塞ぎたい気持ちで、彼女の話を聞き続ける一方、10年前の映像に映っていた、私には決して見せることの無かった妻の狂態を否応なく思い出しながら、やはり私は前妻のことをちっとも分かっていなかったのではないかと思い始めていた。


「あの絵……」


 唐突に、前妻が話題を変えた。テントの横幕に貼り付けられた、夏祭りのポスター。夜の部のプログラムや臨時駐車場の地図も兼ねている。ポスターの中央では、ウサギをはじめとした様々な動物たちが浴衣ゆかたを着込み、帯に団扇うちわを差して楽しげに踊っているイラストが描かれていた。私が町内会に依頼されてデザインしたものであった。


「あなたが?」

「あ、ああ。よく気付いたな。今ああいう仕事もやってるんだ。ちょっとしたお小遣い稼ぎだよ」

「そうだと思った。あなたが時々ノートに書いていた絵に似ていたもの。夢を叶えたのね。すごいわ!」


 いやいやそんな大したものじゃないよ、と私は慌てて否定する。謙遜ではなく事実、家族を養えるほどの収入があるわけではない。事務の仕事は未だに続けているし、実際の収入はおそらく妻の方が上である。娘も最近はすっかりで時に私に辛辣、家庭内における私の地位ヒエラルキーは目下、急降下中である。どうやら私は、女性に組敷かれる運命にあるらしかった。


 それでも前妻はすごいすごいと私を褒めそやし、ポスター1枚もらってもいい、せっかくだからサイン書いてよ、いや書き方なんか分からんし、などと、先程とは打って変わった他愛ない会話を交わし、私はようやく人心地ついた気持ちになったのだが、前妻が「やっぱり私と別れて正解だったね」とポツリと言ったことで、再びお互いに沈黙するはめになってしまった。


「きみは」


 私は恐る恐る言葉を発する。とにかく沈黙が辛かった。陽はいよいよ傾き周囲は宵闇に沈もうとしている。夏祭りの電飾に、ちらほらと明かりが灯り始めていた。


好きだったのか?」


 それは、別れて正解だったねとつぶやいた前妻へ、精一杯ひねり出した私の返答だった。斜め上の反応もいい所であったが、そもそもあの淫らに狂った前妻を知ってしまった後、私が彼女に対して冷静でいられたことなど、ただの一度もなかったのである。


「全然」


 前妻の返答は簡潔だった。


「あの頃のことは今でもよく分からない。出所した後、散々いろんな男と寝たけど、何にも感じないの。なーんにも」


 ひどいみたいな物だったのかしら、と言って、前妻は再びにへらにへらと笑った。はしか。はしか。はしか。浮気も托卵も、嬰児えいじを殴り殺してトイレに流そうとしたことも、すべてはしかで片付けようというのか。何やら遠くを見つめて笑う前妻は、闇を深める夕暮れの中に何を見出しているのだろうか。


「私にパンをくれた女の子。可愛かったわね。笑ったところ、あなたにそっくりだったわ。娘さんなんでしょう?」


 とびきりの笑顔……おそらく本人はそう思い込んでいるであろう前妻の笑顔は、夕闇と電飾のまだらなコントラストの中で、不気味な暗色に彩られた能面のように見える。


 私は前妻の質問に答えたくなかった。話しすぎたと思った。私の目の前にいるのはもはや、私が知っている前妻ではなかった。赤ん坊を挽き肉ミンチにした女。まぎれもない殺人者なのだ。私はここを離れなければならない。一刻も早く。


「もう行くよ」


 私はきわめて強引に話を切り上げ、立ち上がった。前妻は「あらそう」と言ったきりで、私の後を追う気配はない。足早に立ち去りながら、私は妻に電話を掛ける。妻は電話に出なかった。「迎えに行くから家にいて」メールを送ると、わたしは家に向かって走り出した。


 果たして妻と娘は、家にいた。

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