§082 津波
叫んだ時にはもう手遅れだった。
クラーケンの後方から雪崩の如く押し寄せてくる津波が、俺達を瞬く間に水中へと引きずり込んでいった。
戦場が一瞬にして水中へと置き換わる。
強い衝撃とともに、濁流に飲まれた俺達は上下左右に激しく揺さぶられ、もはや方向感覚は失われた。
かろうじてわかるのは、右手に伝わるリーネの手の感触だけ。
激しい濁流の中、薄っすらと目を開けると、先ほどまで俺達がいた神殿は完全に水中に沈み、それでもまだまだ水嵩は増え続けて、水面はもうすぐで鍾乳石が連なる天井へと達しようとしていた。
……このままでは空気が持たない。
……早くどうにかしなければ。
そんな焦りが俺の思考を鈍らせる。
リーネも泳げないということはないようだが、人間が水中でできることなどたかが知れている。
濁流の中を必死にあがき、どうにか溺れないようにするだけで精一杯のようだった。
けれど、俺には光明があった。
というのも、今この場にいるのは、世界で唯一の詠唱を必要とせずに魔法を発動できるパーティだ。
俺達ならこの状況でも、クラーケンに対して攻撃できるのだ。
おそらくだがクラーケンの体力も風前の灯火。
だからこその起死回生とも取れる津波攻撃なわけだ。
あと数発。
魔法を打ち込めば勝てる。
俺は決死の思いで指を動かし、新・創世教との闘いさながら、大量の魔法陣を描く。
前後不覚の水の中で、照準がうまく定まらない。
それでもクラーケンに当たれば吉、仮に周りの壁を破壊してこの溜まり続けている水を外に押し流すことができれば完璧と
しかし、俺が扱える魔法は基本的に『火』属性のものばかり。
水中では格段に威力は落ちていた。
いくつかの火山弾はクラーケンに確かに命中しているのだが、どうやら致命傷になっていない様子。
それでも俺は魔法陣を描き続けた。
けれど、一方のリーネはというと、全く魔法を発動していなかった。
そんな隙をついてか、水の中で勢いを増しているクラーケンの触手が一斉にリーネを襲う。
俺は反射的にリーネを守るように魔法陣を描いたが、水中での速度は完全にクラーケンに軍配が上がった。
クラーケンの触手はリーネの足を掴むと、彼女の身体をそのまま自身の潜む海底へと引きずり込む。
その力には、俺達が握り合っていた手の力など無に等しかった。
(ごぼっ)
リーネは水中に引きずり込まれる勢いで、口から大きく息を漏らした。
そして、今までどうにか耐えていた表情にも苦悶の色が浮かぶ。
このままではリーネの息が先に尽きる。
俺は『火』属性魔法の使用を止め、決定打となる新たな魔法陣を構築しようと決意し、一度体制を立て直すことを試みる。
しかし、クラーケンはそんな俺の変化を感じ取ったのか、リーネを盾にするかの如く、自身の目の前に掲げたのだ。
所詮は魔物。
それでも防衛本能の為せる業なのだろう。
クラーケンは俺にとって最悪の一手を打ってきたのだ。
……これでは俺は攻撃できない。
仮に照準を間違えば、俺の攻撃がリーネに当たってしまうからだ。
今、俺が描こうとしている魔法陣はこれまで一回も使用したことのないもの。
そんな魔法陣を針の穴を通すコントロールで、リーネに当てずにクラーケンのみに当てる。
そのような芸当をできる自信は、今の俺には無かった。
どうする、何か手はないのか。
俺の肺の中に残された空気も、余裕があるとは言えない状況になっていた。
もってあと一分というところだろう。
死のリミットが近付いてきているという焦燥感から思考は著しく鈍化する。
しかし、そんな俺よりも先にリーネが限界を迎えていた。
(ごぼっ)
口から最後の空気が大きく吐き出された。
そのまま意識を失うように、リーネは雛罌粟色の瞳を閉じ、四肢から急激に力が抜けた。
(リーネ!)
俺は声にならない声で叫ぶ。
……一瞬でいい。
……リーネをクラーケンから引き離せたら。
そんな祈りに似た思考と同時に、まるで条件反射のようにリーネから以前もらった紅玉を、俺は堅く握りしめた。
――刹那、紅玉が眩い光を放って発光した。
まさに閃光と呼ぶにふさわしい目が眩むほどの光が、俺の身体を一瞬にして包み込み。
その瞬間、俺の腕に何か重いものがズシリと現れるのを感じた。
(――――!!)
俺はその事態に驚愕した。
どういう原理かわからないが、クラーケンに捕まっていたはずのリーネの身体が俺の腕の中に収まっていたのだ。
……これは……転移?
でも、助かった。
俺は「なぜだ」を考える前に、指を動かしていた。
顕現したのは俺が過去に一度も使用したことのない『魔法陣』。
その魔法陣の文字色は、いつもの燃えさかるような深紅ではなく、深い海の中を模したような青色をしていた。
俺は心の中で叫ぶ。
(――『
魔法陣から勢いよく射出されたのは、水竜の咆哮の如き水の弾丸。
そんな弾丸が同じく水を切り裂きながら加速度的に速度を上げ、そして、クラーケンの身体を穿つ。
(ドゴォォオオ――――ン)
同時に水中とは思えない炸裂音が深層を揺らした。
「グォォォォオオ――――ン……」
事切れたような悲鳴を上げたクラーケンの身体は脆くも砕け散り、海の藻屑と変わる。
そんな泡沫となったクラーケンの姿を見届けるよりも先に、俺は閉ざされていた鉄扉に向かっても――
全てはリーネを助けるため。
うまく命中した砲弾は、クラーケンに向かって放たれた砲弾よりも少し遅れて鉄扉に命中し、砕け散った扉からは堰を切ったように勢いよく水が流れ出る。
そんな水流は当然俺達の身体も飲み込み、まるで排水溝から押し出されるが如く、俺とリーネは神殿の外――地底湖へと放り出される。
(ふはっ)
俺は数分ぶりの息を肺一杯に吸い込んだ。
身体中を酸素が一気に駆け巡り、感覚を失いつつあった四肢にも活力が戻ってくる。
俺はすぐさま水から上がると、腕に抱くリーネを地面に横たわらせ、状況を確認する。
が、事態が想像以上に深刻であることを悟る。
――リーネの呼吸が止まっていたのだ。
顔面は蒼白。
体温はかなり低下しており、生気が感じられない。
迷っている時間など、俺には無かった。
俺はリーネの顎を引き、気道を確保すると、唇を重ね、一気に息を吹き込んだ。
俺の呼吸に合わせ、リーネの胸が上下動する。
一回……二回……息を吹き込んだところで、
「ごほっ! ごほっ!」
リーネが水を吐いた。
呼吸が戻ったのだ。
「リーネ! 俺だ! 俺がわかるか!」
俺はどうにかリーネの意識を覚醒させようと、必死にリーネの名前を呼ぶ。
「ごほっ! ごほっ!」
続けざまに水を吐き出すリーネに手を添え、俺は全ての水を吐かせるように促す。
そして、ひとしきり水を吐いた後、リーネは虚ろな瞳を俺に向ける。
「ジル……」
いつもの銀鈴を振るうような声とは比べ物にならないほどの弱々しい声音。
それと同時に雛罌粟色の瞳から一筋の涙が伝う。
「……怖かった。ジル……怖かったよ」
そこからリーネは俺にもたれかかるようにして泣いた。
豊満な双丘がこれでもかと押し当てられ、体温が急上昇するのが自分でもわかったが、状況が状況だけに俺はそれを受け入れる。
そうして、俺はリーネが落ち着きを取り戻すまで、その場で一人介抱したのであった。
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