§054 賢者物語

「あの……」


 声の方に向き直ると、本を胸に抱いた女性が一人。


 俺はその女性の立ち姿に思わず言葉を失った。


 組紐で結い上げられた金色の髪。

 色白な胸元が強調されたオフショルダーの真紅のドレス。

 そして、芯の強さを感じさせる雛罌粟ひなげし色の双眸。

 凛とした顔立ちと、気高さ溢れる佇まいは、まるで一国の姫君のよう。


 そんなまるで御伽噺から飛び出してきたかのような彼女は、俺のことを真っすぐに見つめると、上品な笑みを湛える。


「先ほどはちゃんとしたお礼も言えず大変失礼しました」


 落ち着き払った声音。

 一瞬遠慮がちに聞こえた彼女の声音も、こうやって彼女の容姿と合わせ聞くと、それはとても悠然としていて、つい自分が謝意を述べられているのを忘れてしまうほどに、気品に満ち溢れているものだった。


 彼女は肩にかかった髪を優雅に払うと、まるで愛猫を愛でるかのように、先ほどのイヤリングに手を触れる。


「このイヤリング。とても大切なものなんです。それが気付いたら耳に無かったものですから、道中どこかに落としてしまったのだと気が動転してしまって。もし、貴方様が見つけてくださらなかったら、せっかく楽しみにしていた舞台も台無しになっていたことと思います。心より感謝を述べさせていただきますわ」


 そう言って彼女は深々と頭を垂れる。


「いえいえ、頭を上げてください。は偶々自分の足元に落ちているのを見つけただけですので」


 相対している女性は、装い、話し方、佇まいからおそらくは上級貴族の令嬢だ。

 【速記術】のことはもちろん伏せるとして、最低限の礼儀をもって接するのは、社交界では当然のことと言える。


 ただ、俺は自身が甘言かんげんがあまり得意ではないことは自覚している。

 そのため、普段の俺なら、いくら相手が貴族令嬢といえど、形式的な応対のみで事を済ませていただろう。


 けれど、先ほど見た歌劇オペラの興奮が冷めやらぬのか、はたまた、同じ原作を愛する者に巡り合えたという感情の昂りからなのかはわからないが、この時は自分でも驚くほど自然に言葉を紡いでしまっていた。


「僕なんかがお役に立てたのであれば、、心より嬉しく思いますよ」


 それがどうやら彼女の興味を引いてしまったようだ。

 本来であれば儀礼で終わるはずだった謝辞が自然に会話へと昇華していく。


「もしかして、貴方も『賢者物語』をお読みで?」


 彼女は少し驚いた表情を浮かべ、興味深げに小首を傾げる。


「ええ、もちろん。昔から本が好きで、特に『賢者物語』は時間を忘れて読みふけったほどです」


「まあ、それは嬉しいわ。こうやって歌劇オペラを観覧に来られる方でも原作に触れられている方はそう多くないもので」


 そう言って彼女は少し寂しそうな笑みを浮かべる。


 歌劇オペラはもちろん舞台自体を楽しむ場合もあるが、それよりも貴族同士の社交の場として色彩が強いと聞く。

 そう言われると確かに前の席の貴族はオペラグラスを片手に向かい席に座る令嬢に対してしきりにアプローチをしているようだった。


 実際のところ、俺や彼女のように純粋に物語に没頭しにくる者は少数派なのかもしれない。


「確かにそう言った方々も見受けられましたね。原作を知っているからこそ楽しめる部分も多いと思うんですけど」


 そこまで言って、劇中に「そういえば」と思ったシーンを思い出した。


「例えば、主人公のゲイルがベランダ越しのフィーネに密かな想いと伝えるシーン。今日の歌劇オペラではゲイルが『愛しています』と直接な表現を使っていました。でも、お互いの関係は敵国の将官と姫君。だから、原作では自国の立場を踏まえて、敢えてこう言うんです」


「「――『今夜は月がとてもきれいですね』――」」


 そう言って原作の台詞を述べた瞬間、俺と彼女の声が重なった。


「……え」

「……あ」


 この台詞は今日の歌劇オペラでは登場しなかったものだ。

 俺ぐらい何度も何度も読んでいれば記憶していてもおかしくはないが、決して有名な台詞というわけでもない。

 それを当たり前のように諳んじた彼女に、俺は驚きを隠せなかった。


 俺は思わず彼女を見る。

 すると、彼女も灼熱の双眸を見開き、両手で口を覆っていた。


「す、すみません。わたくしったら。大好きな一節だったものですから、つい口を衝いて出てしまって……」


 そこまで言った彼女は、今度は何かを手繰るように、恐る恐る口を開く。


「――『随分と気付くのが遅いのですね。私にとって月はずっと綺麗でしたよ』――」


 先ほどのゲイルの台詞に続く姫君の台詞だ。

 俺はそれに呼応するように応える。


「――『ああ、いつか生まれ変わったら、もう一度この月を見れるだろうか』――」


「――『ええ、きっと。たとえ遠く離れていても、月はいつも貴方の側に』――」


 台詞を紡ぐ彼女はまさに姫君そのもの。

 憂いを帯びた表情は全ての男を魅了し、可憐な声音は全ての男を虜にする。

 凡夫な俺もどうにかそれに応えようと必死に台詞を紡ぐ。


 傍から見たら恥ずかしいことこの上ない光景なのだが、この時、二人の間にそのような感情は一切無かった。


 このままなら小説一冊分を二人で演じられそうだ。

 そんな考えが頭をよぎるくらいに、俺はこの状況に心を弾ませていた。


 彼女もおそらく同じ気持ちでいてくれたのだろう。

 瞳を輝かせて台詞を紡ぐ彼女は、とても活き活きしているように感じた。


 いつ終わるのかもわからない台詞の応酬を繰り返した後、


「あ、あの……」


 やっとのことで彼女が小説には描かれていない言葉を口にした。


 俺はその言葉にハッと我に返る。


 お、俺は……一体何をやってるんだ。


 冷静さを取り戻した俺は、急な気恥ずかしさを感じ、この場を逃げ出したい衝動に駆られた。


 これが……黒歴史ってやつか……。


 おそらく俺の顔はゆでだこのように真っ赤になっているだろう。

 それを証拠に、彼女も同じく真っ赤になった顔を両手で覆い、「わたくしったら……なんてことを……」と呟いている。


 二人の間に何とも言えない空気が流れ、どうにもいたたまれなくなった俺は、その場を立ち去ろうと彼女に声をかけようとした瞬間――


「「……あの」」


 ――またしても俺と彼女の声が綺麗に重なった。


「「……あ」」


 そんな偶然にお互いに顔を見合わせあった俺達だったが、彼女はその状況がおかしかったのか急にくすくすと笑い出した。


「なんか恥ずかしさを通り越して、もうどうでもよくなっちゃいましたわ」


 そう言って破顔した表情のまま、艶やかな髪を耳にかけると、上目遣いでこう言った。


「わたくしたち、気が合いそうですわね」









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