§053 歌劇

 俺は久々の一人の時間を楽しむために王都の歌劇地区へと足を運んでいた。


 もちろんレリアと約束もしているし、お店に行くつもりは毛頭ない。


 今日の俺の目的は文字通り『歌劇オペラ』だ。


 俺は別に芸術や音楽に秀でていたわけではない。

 それでも、歌劇オペラは本の虫であった俺の憧れだった。

 大好きな物語の世界を現実世界で楽しむことができる夢のような舞台。

 こんな素晴らしいもの、心が躍らないわけがない。


 ただ、歌劇オペラは高級財。

 ユーフィリア王国広しと言えど、歌劇オペラが見られるのは王都だけだろう。

 レヴィストロース辺境伯家にいた頃ならいざ知らず、追放された身ではとても歌劇オペラを見ているほどの金銭的余裕はない。


 そう思って半ば諦めかけていたのだが……。


 何の因果か、先日、シルフォリア様から歌劇オペラの鑑賞券をいただくことができたのだ。

 それも王都を代表するオペラハウス・『オリオン座』の特等席だ。


 首席合格のお祝いとのことだが、レリアの護衛の件もそうだし、なんだかんだシルフォリア様は俺達に甘い。


 これは身寄りも無く、一人王都に滞在することを余儀なくされた俺への気遣いなのかもしれないと思った。


 そんなわけで何となく遠慮するのも申し訳ない気がしたので、俺は鑑賞券をありがたく受け取ると、どうにかドレスコードを見繕って『オリオン座』へと足を向けたのであった。


 俺はその建物を目の前にして、思わず息を飲んだ。


「……すごい」


 そんな単調な感想しか出てこないほどに『オリオン座』は他の建物とは比較にならないほどの存在感を放っていたのだ。


 荘厳さを醸し出す格調高い石作りに、神殿を模した石柱。

 屋根はドーム状に広がり、金の装飾が燦然さんぜんと煌めく。


 中はまさに絢爛けんらんそのもの。

 煌々こうこうと輝くシャンデリアに、赤い天鵞絨ビロードの絨毯。

 吹き抜けの天井にはステンドグラスが虹を作り、階段にふんだんに散りばめられた大理石が小気味いい音を鳴らす。


 そんな非日常を通り抜け、俺は指定された座席へと向かう。


 そこは絨毯と同系色の椅子が立ち並ぶ二階。

 特等席という名に相応しい、ゆったりとくつろげるソファ席だった。


 俺は椅子に腰を落ち着けると、周りに目を向けてみる。


 まあ、予想はしていたが、上級貴族と思しき紳士・淑女ばかり。

 それに、今日は偶然にも演目の公開初日らしく、劇場内はほぼ満席だった。


 そんな中で、平民の俺が特等席。

 さすがに場違いなんじゃないかという感情が薄ら芽生えたが、幸いにも隣の席は未だ空席だったため、そこまで気負うことなく開演までの時間を過ごすことができた。


 俺は手元のパンフレットに視線を落とす。


 今日の演目は『賢者物語~名もなき恋の詩~』。


 この演目は俺の子供の頃からの愛読書『賢者物語』の一節を原作とするものだ。

 もしかしたら俺が六天魔導士を志すことになった原点と言える作品かもしれない。


 王国魔導騎士として大魔導を志す青年と、圧倒的な力から魔女と恐れられた敵国の姫君。

 その決して結ばれることのない儚き恋の御伽噺。


 この本を読んでいたのはレヴィストロース家にいた頃だから山小屋の時のように【速記術】が使えたわけではない。

 それでも、本が擦り切れるまで熟読し、夜が明けるまで模写を繰り返したのはいい思い出だ。

 今でも大抵の台詞なら諳んじて言える自信がある。


(ブー)


 場内にブザーが鳴り響き、段々と視界が暗転する。


 ――開演だ。


 ゆっくりと舞台の幕が上がり、場内の視線がその一点に釘付けになるその瞬間――


「……すみません」


 一人の女性が俺の前を横切った。

 彼女は小声で謝意を述べつつ、隣の席へと腰を下ろす。


「はぁ……はぁ……」


 どうやらぎりぎりで駆け込んできた観客のようだ。


 相当急いで来たのだろう。

 視界の端に捉えた彼女は腰を下ろしてもなお荒い息をし、それをどうにか抑えようと胸に手を当てている様子だ。


 場内の明かりが消えているため全貌はわからないが、おそらくは若い女性。

 俺と同じくらいか、少し上くらいだろうか。


 雛罌粟ひなげしのような真紅のドレスに身を包み、何よりも手元に古びた本を抱えているのが印象的だった。


 この暗がり。

 当然、本のタイトルが見えたわけではない。

 けれど、俺にはそれが何の本なのかすぐに分かった。


 小説――『賢者物語』


 そう。この歌劇オペラの原作であり、俺が擦り切れるほど読んだ例の愛読書だ。


 歌劇オペラの場にあれだけ大事そうに帯同するぐらいだ。

 おそらく彼女も『賢者物語』の大ファンなのだろう。

 その事実が俺に不思議な親近感を与えた。


 しかし……俺は一度瞑目すると、舞台上に視界を戻す。


 彼女は赤の他人だ。

 初めての歌劇オペラで、隣に座った女性が同じ小説のファンだった。

 運命でも何でもなく、ただそれだけのことだ。

 会話をすることもなければ、今後会うこともない。

 きっと歌劇オペラが終わる頃には俺は彼女のことなどすっかり忘れてしまっているだろう。


「……ふぅ」


 俺は軽く嘆息すると、彼女の存在を心の外縁へと追いやる。


 そうして、意識を舞台に集中させようとしたその瞬間――


「……あれ?」


 ――またしても隣の彼女に意識を奪われることになった。


 彼女は小さく疑問符の付いた声を上げると、椅子の下辺りをきょろきょろと見回しだしたのだ。


 今度はどうやら何かを落としてしまったらしい。


 劇場内の照明は落ちているため、この状況で探すのは困難。

 本来なら歌劇オペラが終わり、照明が明るくなった時に探せばいいのだが……。


 まあ、失くし物が見つかっていない状況では中々舞台に集中できない気持ちはわかる。

 何よりこの状況では俺の方が集中できそうにない。

 せっかく楽しみにしていた舞台なので、出来れば誰にも邪魔をされずに深く深く没頭したいという気持ちが強くあった。


「……ふぅ」


 今日はため息の多い日だ。

 俺はまたしても軽く嘆息すると、小さく指を動かし、固有魔法【速記術】で『魔法陣』を展開する。


 ――多重展開の領域ドミネーティング・フィールド――。


 五感を研ぎ澄まし魔法陣に触れたものの形状などを把握する、二次試験で大いに活用した索敵魔法だ。


 劇場内で魔法を展開する機会などそうそうあるものではない。

 けれど、こういう場合は無詠唱で魔法を展開することができる魔法陣は非常に有効的だと思う。


 俺は少しずつ索敵の範囲を広め、ほどなくして彼女の失くし物と思しき物を発見した。


 ちょうど俺の椅子の下辺り。

 形状から赤色の宝石をあしらったイヤリングだろう。


「(あの、もしかしてお探し物はこれですか?)」


 俺は静寂を壊さぬよう、小声で彼女に話しかけ、拾ったイヤリングを差し出す。


「え?」


 途端、呆けた声を上げる彼女。

 何となくこの未来が予測できていたがゆえに、俺は先手を打って自分の唇に人差し指を当て、「しぃーっ」の仕草を彼女に伝える。


 彼女はそれを見てハッとしたようにコクリと頷くと、「ありがとうございます」と小声で言って頭を下げた。


 そこからはもうお互いの時間。

 俺は何事もなかったかのように舞台に没頭した。


 そして、拍手喝采とともに舞台は閉幕した。


 ……よかった。

 ……歌劇オペラってこんなにもすごいものなのか。


 俺は初めて見た歌劇オペラの素晴らしさに思わず脱力してしまっていた。

 ふと目を閉じると様々なシーンが瞼の裏に蘇る。


 ……また来よう。今度はレリアも一緒に。


 そう思えるほどに俺は歌劇オペラの虜になっていた。


 俺はしばしの余韻に浸りつつ、観客が捌けだしたのを確認すると、ゆっくりと席を立った。


 そして、すっかり暗さに慣れてしまった目をしばたたきつつ、出口に向かおうとした瞬間――


「あの……」


 後ろから遠慮がちに呼び止める声がした。


 俺は声の方に向き直る。

 すると、そこには先ほどの真紅のドレスの女性が立っていた。





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