第31話新たな旅立ち
二十年という年月は天道藩に大きな変化をもたらしていた。
最も大きな変化は、天道藩自体がないことだろう。遠い京で行なわれた革命によって、幕府は無くなり、藩という仕組みそのものが廃止された。もしも藩主だった天道蛾虫が生きていれば、幕府が政府に取って代わられる間に、何かの動乱に参戦していたかもしれない。しかし瀬美によって殺されてしまい、後継ぎもいなかったことから、何もできずに政府の支配を受け入れてしまった。当然、コドク町も解体され、住人は退去された。彼らがどうなったのかは分からない。一説によると北海道に向かったとも言われる。
また蝶次郎と関わりを持った者はほとんど生き残っていた。
源五郎とたまは元天道藩の城下町で町医者を続けている。たまも医術を習得しており、彼女に診てもらおうとわざと怪我をする者もいるらしい。そうしたものは源五郎から灸をすえられることになるのだった。
とん坊は二十年の間成長し、今は龍谷屋とん平として、実家の商家を継いでいる。政府から仕事を請けて商売をして繁盛しているのだが、意外とやっかみはないらしい。また商才もあるらしく、次々と新しい商品を開発しているようだ。
おもんとおしろとおちょうは今も長屋暮らしをしている。妙齢の女性から老婆となった今でもお喋り好きは変わらないようだった。時折、とある女性のことを語るが、決して名前を言わないものだから、近所の子供からは彼女が架空だと思われている。
蟷螂は元天道藩の城下町の顔役として活躍している。官憲の目が届かない住民同士の問題を解決したりしている。また血の気の多い者たちを自分の子分にして、抑えつけている。彼が改築した燭中橋は住民たちの生活に役立っていた。しかし蟷螂は自分の手柄ではないと公言していた。
中には死亡した者もいた。たとえば天道藩の家老だった光原蛍雪は、蛾虫を守れなかった罪で切腹した。彼は一切言い訳をせず、従ったと伝わっている。光原家もその咎でお家断絶となった。
蝶次郎の上役、吉瀬鍬之介は数年前に病で亡くなった。蝶次郎のことを最後まで気遣っていて、青葉家の墓に毎月墓参りしていた。病気で身体が動けなくなるまでずっと続けたようだ。彼が眠る墓には時々『大兜』という酒が供えられたのだが、誰の仕業か判然としない。
◆◇◆◇
蝶次郎がこの世に戻って数か月が経った。
その間、彼はすっかり変わってしまった世の中の仕組みに慣れることに専念していた。
身分や階級のない世界は自由であったけど、その分複雑であると彼は思った。
春が近づいたある日、蝶次郎はたまを伴って、タダシの墓を見に行った。
すっかり古びた墓石を見て、改めて二十年の時を経たのだと彼は感じた。
「瀬美さんの墓でもあるんです。ここは」
「まあそうだろうな。瀬美の墓は立てられない」
二人は暖かくなった日差しを浴びながら、思い出話をした。
たまにしてみれば二十年前のことだったけど、蝶次郎にしてみれば数か月前のことだった。
思えば瀬美とは短い付き合いで、地上に出てきた蝉のように短い期間での生活だった。
それでも蝶次郎はいろいろなものを瀬美から受け取った。
「たま。俺は決めたよ」
蝶次郎が不意に、決意を込めた顔でたまに言う。
たまは黙って聞く。
「俺は、学者になる。そして世の中のためになることをしたい」
「それは、どうしてですか?」
「瀬美は俺を助けてくれた。俺みたいなどうしようもない男を、身を挺して救ってくれたんだ。だったら、俺は変わらないといけない。幼虫が羽化して羽ばたく蝶になるようにな」
蝶次郎は今の世の中を冷静に見られた。
西洋の技術や文化を取り入れている今こそ、学問をする好機だと。
「だから俺、東京に行くよ。既にとん坊……じゃなかった、とん平に渡りをつけてもらった」
「……そうですか、寂しくなりますね」
髪をかき上げたたま。その横顔は悲しそうだった。
蝶次郎はこほんと咳払いして「実は折り入って頼みがあるんだ」と言う。
「俺と一緒に、東京に行ってくれないか?」
「えっ? それって……」
「その、なんだ。所帯を持ってほしいんだ……いや、この言い方は駄目だな」
蝶次郎は驚いているたまに頭を下げた。
「今まで待たせてすまなかった。婚姻してくれ」
「……本当、ですか?」
たまの目からどっと涙があふれた。
蝶次郎は「とん平から聞いたよ」と照れくさそうに言う。
「ずっと好きでいてくれたんだってな」
「あの子、秘密だって言ったのに……」
「ふられた腹いせだってよ。それより、その、返事聞かせてくれ」
たまは泣きながら蝶次郎に抱きついた。
「もちろん、お受けします! もう、蝶次郎さんは、待たせすぎなんだから!」
蝶次郎はたまに「二十年も待たせてごめんな」と抱きしめ返した。
こうして二人は夫婦となった。
上京した蝶次郎とたまには様々な苦難があったけど、二人は協力して乗り越えて行った。
子供にも恵まれて、その子供も学問を志し、学者へとなる。
ところで、青葉蝶次郎は上京する際、どさくさに紛れて改名をした。
「とん平が今の名前だと、元天道藩の藩士に狙われる可能性があると言っていました」
「そうか。ならこんなのはどうだ?」
蝶次郎は紙に筆で大きく『今野宙』と書いた。
「何と読みますか?」
「ああ。『いまのそら』と読む」
蝶次郎は生涯気づかなかったけど、瀬美を開発した今野忠博士と同じ苗字だった。
しかし口での説明だったため、彼は『紺野』や『金野』だとばかり思っていた。
「たま。これからよろしく頼むな」
「ええ。あなた」
◆◇◆◇
遠い未来。
具体的に言えば蝶次郎と瀬美が出会ってから六百四十年後のこと。
一人の老科学者が、モニターをタッチして、操作していた。
視線の先には美しい女性が寝ていた。
「これで、問題はないな」
ふうっとため息をついた老人。
後は起動スイッチを押すだけだった。
「……私がこれを押すことで、様々な死が訪れるのか」
彼は迷っていたが、運命には逆らえないことに気づいていた。
もし押さなければ自分という存在が消えてしまう。
彼にはすべて分かっていた。
青葉鎌三郎、鎌田宗一郎。天道馬虫と天道蛾虫。まゆ姫など多くの人間が死ぬ原因が、このスイッチにあると。
しかし過去を変えなければ、日本どころか世界に革新を与えていた『今野一族』が存在できないと。
彼ら一族がいまの、から、こんの、に読みを改名したのは、もう数百年前になる。日本が戦争に負けたときに変えたと伝わっていた。
そもそも、蝶次郎が神隠しに会った理由は分かっていた。蝶次郎が今野宙に改名したあたりから付けていた日記に記してあったのだ。
「もしも、私が実行しなかったら……たまと婚姻することは無かっただろう。それどころか、天道藩が幕府と政府の戦争に巻き込まれて、蝶次郎は死んだかもしれない」
だから実行しなければならなかった。
多くの者が不幸になるとも、今野一族が人類に与えてきた技術はあまりに大きかった。
「鶏が先か、卵が先か……」
迷っていた科学者だったが、結局押した。
寝かされていた女性が、起き上がる。
黒髪を腰まで伸ばし、雪のように真っ白い肌。作り物みたいな整った顔立ち。
ぷっくらとした唇は桜色だった。
女性は機械的に開発した博士に挨拶した。
「おはようございます――今野忠博士」
「瀬美。君はこれからいろいろな体験をするだろう」
今野忠博士は愛しい娘に言い聞かせるように、彼女に言った。
「決して逃げてはいけないよ」
「イエス。かしこまりました」
冬に鳴く蝉 橋本洋一 @hashimotoyoichi
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