第9話 その一人が

 トイレから出た私は、手洗い場で手を洗っていた。


 石鹸をつける。洗う。擦る。手首まで。


 念入りに。真剣に。


 自然とそうしていた。人生でこんな真面目に手を洗ったことなんてない。


「なに、お前。すげー真面目に手え洗うじゃん」


 たまたまいたクラスの男子が私を冷やかした。


「お前、もしかしてテレビで言ってるウイルスとか気にしてんの?」


 言葉にはしなかった。けれど、どこかバカにしたトーン。


 あんたはことの重大さがわかってないんだよ。


 そんな声をすんでのところで飲み込んだ。


 私だって、あんなことになるなんて、あんなことになるまでわかってなかった。


 お姉ちゃんが死ぬまでわかってなかった。


 テレビで、有名なタレントさんが亡くなった時、世間も私もざわつきを見せた。

 

 けど、その先にお姉ちゃんが死ぬなんて思ってなかったんだ。


 ある国の大統領は、「これは戦争だ」とカメラの前で訴えた。


 その国は第二次世界大戦の死者数が30万人以上で、今回のウイルスによる死者は50万人を超えた。


 大袈裟ではなかったのを、数字が突きつけたのだ。


 でも私は数なんて関係ないと思う。


 1という数字が、あなたの大切な人なら、小さい数では片付けられないじゃない。


 男子の軽口に本気で腹がたった。けれど……彼と今の私は違う。


 私は未来のことを知っている。あと、本当は4年生じゃなくて6年生。


 この子を責めることなんてできない。


 そんなことしてる暇があるなら頭を使え。6年生でしょ!


 自分に言い聞かせて、余計な雑音をかき消した。

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