ⅤーⅨ

 月を裏側に隠した雲が夜空の縁を銀色に飾っている。

 草原を縦断する拓けた道も、夜になると人通りどころか馬車一台も通らない。この先に人間が暮らす大規模な集落がないとなると尚のことである。もし夜に出くわすとすれば商隊よりも野盗であろう。


 アルラーシュ達と別れたリュカは夜の街道を南へと向かっていた。近衛騎士の装束からリウェンに貰った庶民の服に着替えようかとも思ったが、この道の先で王都の事情に詳しい軍属の人間に出会う可能性は低く、それならば一目で騎士であるとわかったほうが無用の揉め事を呼び込まないだろうと考え直した。

 これから夜通し歩けば、明日の昼までには街道の終点に着くだろう。


 そう思っていたのだが。


「少し見通しが甘かったですかね」


 唇の端をあげて、自身を皮肉った。

 構えた片手剣の切っ先を向ける先に、音も立てずに羽ばたきながら滞空する大きな影がある。


 それは梟に似た巨鳥であった。


 不吉な満月のような双つのまなこがぐるりぐるりと回転する。それに合わせるように、丸い頭もまるでネジを巻くようにぐりぐりと動く。真っ黒な鉤爪をもつ湾曲した足の指は、明らかに猛禽類のそれだった。


 リュカを静かに見下ろしていた梟がふわりと高度を上げた。

 次の瞬間、矢のような速さで正確にリュカに向かって爪を突き出し滑空してくる。

 すれすれで横に跳び、攻撃をかわしたリュカはすぐに身を翻した。攻撃をかわしたことに安心し、相手に背中を見せれば最後だ。


 せめて岩か木か、盾になるものがあればそれに身を隠すのだが、生憎ここは草原を抜ける街道の真ん中である。少し離れた場所に影のように黒く小さな森が見えるが、そこに向かって走る間に追いつかれ、あの鉤爪に背中を引き裂かれるだろう。


 巨大な梟は再び上空に浮かび、音もなく飛びながらリュカを見下ろす。

 そこに感情が存在するのかどうかはわからないが、少なくとも焦りや悪意は微塵も感じられない。

 おそらくはこの付近を狩り場とし、これまでに何度も夜に少人数で街道を通る者達や家畜を襲っているのだろう。この先には人間の集落はない。夜にこのあたりを通る者達は、要するに真っ当な人間ではないか、あるいは人間以外の種族ということだ。

 それが人間の町ラドガでこの巨鳥に関する情報が聞けなかった理由だろう。


――せめて降りてきた時に一太刀だけでも浴びせられれば。


 魔物ではなく、ただの大きな鳥だ。しかし今のリュカには恐ろしく厄介な相手であった。


 地上ならばいざ知らず、高く舞い上がられてしまうと、遠隔から動きを止めるほどの冷気をじかに叩き込むことは魔法剣では不可能だ。

 自身の剣の柄に埋め込まれた魔石に魔力を注ぎ込みながら、隙を狙って相手の攻撃をかわし続けていたものの、さすがに息が上がってきた。

 相手は夜の狩人だ。薄く月明かりがあるとはいえ、リュカの視力では音もなく高速で襲いかかってくる相手を正確に捉えることは難しい。


 風が吹き、雲が流れて月の光が朧げになる。

 それを好機と見たかのように、凶鳥が再び静かに高度を上げた。


「撃て!」


 凛とした女の声が響いた。

 ひゅうっと長く風を切る音がして、巨鳥の頭上で何かが炸裂する。

 破裂音と同時に周囲が昼のように白く明るくなり、火花がいくつも細い尾を引いて、ぱらぱらと雨のように降り注いだ。


「次! 撃て!」


 ひゅっひゅっと短く笛のような音を立てて、夜空にちらりと鏃を煌めかせ、巨鳥の体躯に対してまるで小さな棘のようにも見える矢がいくつも刺さっていく。

 金属を擦り合わせた時のような不快な鳴き声が凶悪な形のくちばしからほとばしった。


 大梟の広げられた羽根が左右非対称に曲がる。 その体がぐらりと空中で傾いたと見るや、みるみる制御を失って、草原へと落下していった。


 どうやら助かったようだ。

 リュカはふうっと息を吐いた。

 額に汗をかいていたが、それを拭うよりも先に、ばらばらと複数の足音が近付いてくる。


 それらの足音に混じって土を蹴る蹄の音が響き、

やがて暗がりの中から、一頭の栗毛の馬に跨がった女性が現れた。

 胸当てと、肘から先を覆う軽量の小手。背には短弓を背負い、腰にはサーベルを差している。

 後ろで簡素に纏められた髪は、しかし夜目にも美しい艶を放っていた。

 そして、小さな顔の横には、スズランの葉のような形の耳がある。


「あなたは……、もしかしてリュカ?」


 薄く形の良い唇からリュカの名が呼ばれた。

 その声を聞き、リュカは剣を鞘に収めると、敵意が無いことを示す時のように――あるいは「お手上げ」を意味する時のように、両手を挙げて馬上の人物エルフに笑いかけた。


「……やあ、どうも」

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