ⅤーⅦ

――ビビってるぜ、あのガキ。


 エムロードはあざけりの気配を隠さず、モノにそうささやいた。

 彼がそう言うなら間違いはないのだろう。

 彼は感情に敏感だ。

 それは生き物の持つ負の感情が彼にとっては甘味のようなものであるからだが、それはそれとして、こうやって教えてくれることは助かることもある。


 モノはミリィに呼びかけてみたが、結果は逆効果だったようで、ミリィは驚いた後、曖昧あいまいに笑いながらもごもごと口を閉ざしてしまったのだった。


――あーあ。ガラにもねえことするからだぜ。


 モノの杖の上からミリィを見下ろし、エムロードは楽しそうに笑った。実際にはそれは音ではなく、モノだけに伝わる気配のようなものだ。


 モノは再び自分の前を歩き始めたミリィのせた背中を見る。

 きゅっと閉じられた蝙蝠こうもりに似た翼と、ややすぼめられた小さな肩。

 その頼りない後ろ姿は、自分をあの北の都から連れ出そうとした健気な友人のことを、どうしても思い出させるものだった。


 それに。


 歩きながら、モノは右側に続く小部屋の暗闇を横目で確認する。


 近付いてわかったが、確かにここには良くないものがいる。

 気配は小さい。強くはない。

 しかし、強くなくとも狡猾な存在もある。

 王子とルドルフはこの砦の安全を確認し、仮の拠点にしようと考えているようだ。せめて昼間の探索にしようと進言することも考えたが、彼らの話を聞けば、日を改める余裕がないことは理解できた。


 先頭をあるいていたヴァルデマーが歩みを止めた。


「廊下が崩れとる」


 彼の言うとおり、示す灯りの下、石を敷き詰めて作られた廊下の一部が崩れ、黒黒とした口を開けていた。


「崩れていない箇所を通れそうか?」

「まあ待て」


 ヨシノの問いを軽く制して、ヴァルデマーは灯りを床に置き、その場にしゃがみこんで床に顔をつけるようにして、崩れた穴の横の、まだ無事に見える部分を丹念にあらためた。


「ふむ。一人ずつ静かに通れば大丈夫そうだな。最初にわしが渡って確かめてみよう」

「ヴァルデマー、気を付けてくれ」

「ほいよ」


 心配そうなアルラーシュの声に軽く片手を上げて応え、ヴァルデマーは毛皮の靴に包まれた足で慎重にまだ無事な床を踏んだ。

 彼は左の壁に手をつき、摺り足でゆっくりと進み、もう大丈夫というところまで進んで振り返った。


「いいぞい。気を付けて渡るんじゃぞ」


 ヴァルデマーに続いてヨシノが渡り、次にアルラーシュが渡る。

 ミリィは羽根を広げて体を浮かせて渡り、その後にモノ、最後にルドルフが渡った。


「よしよし。そんじゃあ行くか」


 ヴァルデマーが灯りを持ち直し、進行方向に向けたと同時に、ふわりと前方の暗闇に橙色の小さな光が浮かんだ。

 ミリィが短く悲鳴を上げて飛び退すさり、後ろにいたモノに抱きつく。

 ルドルフとヨシノは一瞬身構えたが、すぐにその正体はわかった。


「鏡?」


 一行の前方、暗い廊下に古ぼけた姿見が立てられていた。

 細長い真鍮で作られた楕円形。

 鏡面は曇りきってしまっていて、そこに世界を写してはいなかったが、辛うじてヴァルデマーの持つ燭台の灯りを反射していた。


「ん? この鏡、さっきの小部屋にあったものと似とるな」


 ヴァルデマーが燭台を掲げると、小さな橙色も同じように上がる。

 ルドルフはミリィを追い越して鏡に近づき、横や後ろから鏡を観察し始めた。


(ルドルフ様もヴァルデマーさんも、すごい度胸だなあ……。アタシはあんな気味の悪い鏡になんか近寄るのもイヤなのに)


 そんなことを思ってモノに抱きついたまま、一行から少し離れて後ろの方にいたミリィの目に、薄ぼんやりとした煙のような人影がヴァルデマーの背後にある曇った鏡に写って見えた。


「ひっ! だ、誰!?」


 思わず後ろを振り返って見たが、背後は暗闇ばかりで誰もいない。


「ミリィ?」

「どうしたんですか? ミリィさん」


 皆がいぶかしげにミリィを振り返り、ミリィにすがりつかれたままのモノも心配そうに彼女の顔をのぞきこむ。

 ミリィはそれどころではなく、慌ててもう一度前を見た。

 こちらを見るヴァルデマーの後ろに立つ鏡。

 やはりもやのような人影が写っている。

 ミリィの見間違いではない。


 写っている?

 どこから?

 私達の後ろには誰もいないのに。


 ミリィは目を凝らす。


 半透明の人影の後ろに古ぼけた鏡。

 後ろ?


 に気が付いた瞬間、ミリィは悲鳴を上げていた。


 写ってるんじゃない。

 んだ!

 あれは


「ゔぁ、ヴァルデマーさん! 後ろおぉぉ!!」


 しかし、ヴァルデマーは「後ろ?」とのんきに鏡を振り返り、またミリィに視線を戻した。


「何もないぞ」


 ミリィは答えなかった。

 ヴァルデマーの背後にいた煙のような影が、ゆらりと前に出たからだ。一歩、また一歩と、ヴァルデマーをすり抜け、ヨシノの肩を通り抜け、こちらに近づいてこようとしている。


「い、いやあああ! こっち来る! もう嫌! アタシもう嫌あ!!」


 ミリィは羽根を広げて、身をよじるようにしてモノから体を離した。

 目を閉じたまま、無我夢中で気味の悪い影と反対方向へ飛んで逃げようとする。


「ミリィ! 待て!」

「ミリィさん!」


 浮かび上がったミリィの胴体に小さな体がすがりつく。

 ミリィは羽根を無茶苦茶に動かして暴れた。彼女にとりすがるモノの体がじりじりと引き摺られる。


「離して! アタシ帰る! 帰るんだからぁ!」

「落ち着いてください! ミリィさん!」

「嫌!!」


 思い切りはばたかせた羽根がモノの顔を叩き、小さな体がバランスを崩して転びそうになり、モノに抑えられたまま中途半端に浮いていたミリィの体も、ガクンとバランスを崩した。


「あっ……!」

「キャアッ!」


 中空に悲鳴を残して。

 二人の少女の体は崩れた穴の中へと吸い込まれていった。

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