Ⅳ-XIV
「まずは、私達が出立するための時間を稼いでくれたことについて、礼を言わなければならないな」
アルラーシュは人払いをした酒場の中で、粗末な丸い木製のテーブルについていた。
男はアルラーシュから一足飛びには近寄れない距離に離れて立ち、
それは洗練された動きで、板に付いたものだった。
「お礼など結構です。私もこの村に世話になっている身ですから、半分以上は村のコボルト達のためにしたことです。これでしばらくは兵士がこの村に来ることはないでしょう。今日はもう日も暮れますし、もう一晩お休みいただくのがよろしいでしょう。この村では手に入りにくい物もあったでは? 私の持ち物でよろしければいくらかお分けいたします」
男はすらすらと淀みなく述べた。
「何から何まで世話になる。名は何というのだ。恩人の名だ。聞いておきたい」
「……リウェンと申します」
やはりアルラーシュには聞き覚えのない名前であった。
「リウェン、コボルト達の話では数年前からこの村に住んでいるとか。……それ以前には何を?」
「あちこちの田舎で教師の真似事などしておりました。どこも数年しかおりませんでしたが」
「教師か。
「何の。半端者でございますれば、威張れるようなものではありません」
「移動していたというのは何故だ? 永住しようと思える土地はなかったのか」
「一つ所に長くいればしがらみも増えます。私は……そういったものが苦手で」
アルラーシュは内心で首を傾げる。
リウェンは明らかに何かを隠しているのだが、そこには何が何でも隠し通してやろうという意志が感じられない。
ただ単に信用されていないだけということも考えられるが、それならばもっと頑なな態度をとればよいことで、
アルラーシュはリウェンの表情を見た。
リウェンは僅かに頭を上げ、アルラーシュと視線を合わせる。
眼鏡の奥の瞳の色は穏やかだったが、そこに宿る光には小さな針のような一筋の鋭さがあった。
「長く田舎ばかりにいた割には世事に通じているようだが。今日の事も、このあたりの兵士の事情を把握していなければ出来ぬ事だ」
「そうでしょうか。耳学問ならぬ目学問とでも申しましょうか、
「何故そうも
アルラーシュの言葉にリウェンは口を閉じた。
「単刀直入に言おう。私と私の友のため、其方の力が必要だ。私を助けてほしい」
「
「最初と、それと先程、私に対して臣下の礼をとったな。其方は私が誰だか知っているのだろう」
アルラーシュはリウェンの言葉を遮って、努めて平静に言った。
今まで生きてきて、自分が誰だか知っているのか、などという不遜な物言いはしたことがなかった。
思えば、今までは誰かと引き合わされる時には相手が自分を知っていることが当たり前であり、また逆も然りであった。
リウェンは再び深々と頭を下げる。
「……私の来歴などよりも、それを第一にお尋ねになるべきでした。殿下」
「やはり。しかし私は其方の顔に覚えがない。名を聞いても思い出せないのだが、どこかで会っているだろうか」
アルラーシュが「名を聞いても思い出せない」と言った瞬間、リウェンの表情に複雑な色が表れて、すぐに消えた。
「いいえ、直接お目にかかるのは初めてです。それでもすぐにわかりました。恐れながら、二十年前の……
「二十年前の……?」
「殿下
「わかった。ではそのように」
アルラーシュはリウェンの申し出を受け入れた。
「寛大なるご理解に感謝いたします。
これだけは先に申し上げねばならないことなのです。私は二十年前、当時の王女殿下にお仕えしておりました。まだ
国内での殿下のお立場を強くするためにも、また戦況を好転させ王国を守るためにも、南の廟にあった精霊石を王家の手元で管理し、ハグマタナとの海戦で使用することを進言いたしましたのは、この
アルラーシュは静かに息を呑む。
ファキール王国領海の縁辺で行われたハグマタナとの海戦。そこで精霊石が用いられ、精霊暴走による大規模な被害を出しつつも王国が勝利した歴史を、当然彼は知っていた。
しかし、それに直接関与した者達のことは一切教えられていなかった。それは母である女王シャルザートの考えであったのだろう。根拠はなくとも彼には確信があった。すべての責めを負うことが自らの務めであると、きっとあの母ならば考えるに違いない。
自分の名がアルラーシュに伝えられていなかったことに、リウェンが怒りでも安堵でもない複雑な表情をしたこと。自ら過去を告白したこと。きっと母ならば――
「過去は構わぬ。もう一度言う。私を助けてほしい。――条件を」
リウェンは
「……ありがとうございます。まず、私はすぐにこの村を離れることはいたしません。色々と準備もございますし、何より私は武人でも魔法使いでもありませんので、同行したところで
「よろしい。他には何かあるか」
「すぐにでもメクレンバーグへと向かいたいとお考えでしょうが、その前に他の味方を手に入れていただきたい」
「何故だ?」
「鉱山公の忠誠は疑うべくもなく、さらには御息女であるコルネリア様は殿下の婚約者といっても差し支えのないお立場。また鉱山公の所有する兵力も、北方の守護たるスタンリー家には劣るものの、決して少なくはありません。……しかし、少々力が過ぎるかと」
「力が過ぎる……?」
「竜は確かに強力な生き物です。が、竜をダンスに誘えば、その終わりを決めるのは誘った者ではなく竜となりましょう」
今アルラーシュには頼れるものは少ない。
圧倒的に弱い立場であり、彼自身にあるのは貴種という
「それで他の味方を? しかし、そう都合の良い貴族がいるだろうか……」
アルラーシュは幾つかの貴族の家を思い浮かべたが、舟の上でヨシノが嘆いていたとおり、適切な者は浮かび上がってはこなかった。
「人間ではない方が望ましいのです」
「他の種族か? あまり遠くまでは行けない。この近くでそれなりに強大な勢力を持つ種族というと……」
リウェンを待つ間、この酒場でリュカが語った事を、アルラーシュは思い出した。
「……リウェン、
リウェンが深くうなずき、アルラーシュは思わず苦笑する。
「なるほど。ならば其方の同行はない方が良い」
話を終え、アルラーシュが酒場の出入り口へと向かうその背中に、リウェンが思い出したように問いかけた。
「そう言えば殿下、やけにはっきりと私の顔と名前に覚えがないとおっしゃいましたが、今まで出会った者を覚えておいでなのですか?」
「赤ん坊の頃のことまでは覚えていないが、物心ついてから出会った者であれば、ほとんど覚えていると思う。人の顔と名前を覚えるのは得意だ。城にいる者達であれば全員わかる」
「ほう」
そこでリウェンは初めて感心したような声を出した。
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