第4章 コボルトの村
夢の形見
金色の草原を風が渡っていく。
背中に大地を感じながら、少女は草の中に仰向けに横たわっていた。
重たそうな焦げ茶色の
目を開いた少女は、ほうっと大きく息を吐き出す。
彼女の視界に最初に広がったのは、濃紺の滑らかな布を思わせる空と、その布に金の砂をこぼしたかのように流れる
――あれは何だろう。
少女は横たわったまま空を見上げて考えた。
星じゃない。星はもっと白くて冷たい光だ。
――ここはどこだろう。
こんな金色の草が生えている場所なんて、村の近くにあっただろうか。
――今、何の季節だっけ。
暑くも寒くもない。
星の位置で季節を
――今は……夜?
夜ならば周囲も見えないはず。
それなのに少女には金色の草が風に揺れる様子がはっきりとわかる。
――天の川。動いてる。
仰向けのまま、じっと空を見ていると、金色の大河のように見える天の川を構成する、金の砂のような小さな粒の一粒一粒が見えてくるような気がした。
それらはゆるゆると流れて、一つの大きな流れを作っている。どれだけの金の砂があそこにあるのだろう。
少女は上半身を起こした。
彼女の頭は草原の草よりも高く、座ったまま周囲を見渡すことができた。
――ここ、どこ。
どこまでも、どこまでも、濃紺の空に流れる黄金色の大河と合わさるまで、ひたすらに広がる金色の海の真ん中に、彼女はいた。
彼女は空を見上げる。
黄金色の天の川。
落ちてきそう。
吸い込まれそう。
「あんまり見るんじゃねえよ」
後ろから突然声がして、少女は肩を
とっさに振り返りそうになったが、その前に声が「おーっと、振り返るなよ」と言ったので、少女は首に力を入れて前を向いた。
「……何で天の川を見たらいけないの?」
少女は振り返ってしまわないように気をつけながら尋ねた。
「お前みたいな人間のちっちぇえ頭じゃ受け止めらんねえんだ。せめて人間の意識が消し飛べばな、苦しまずに済むが」
「……あの天の川、流れてるの」
「ああそうだな。だから、あんまり見るんじゃねえよ」
*****
不思議な声と一緒にいるうちに、少女は少しずつわかってきた。
あの大きな黄金色の天の川は、少女を見ている。
どうやら自分を通して、あの大きな存在は何かを
不思議な声は、あいかわらず少女の背中側から語りかけてきて、少女が振り返ることを許さなかった。
誰なのかわからない。
男の人の声に聞こえるけれど、若いのか、年をとっているのかも、判然としなかった。
祖母から聞いた昔話の中に、草原に住んでいて、そこを通る旅人に話しかけて惑わせる悪魔の話があった。
――悪魔かもしれない。
少女がそう感じる程度には、その不思議な声にはどこか不吉な、ざらついた響きが混じっていた。
たまに、天の川を作っている金の砂が、糸のように細い金色の筋になって、こちらに流れてくることがあった。
それだけで、少女の頭の中はいっぱいになってしまう。自分が何なのかもわからなくなって、いや、逆に全てがわかってしまって、はちきれそうなのに全ては停まって、自分の中を膨大な何かが通り抜けていく。
そんな時には不思議な声の気配が大きくなる。そうすると、周囲から音が消えるように、彼女の中は静かになるのだった。
「どうして助けてくれるの?」
「助けてねえ」
声は答えた。
「お前が吹っ飛んだら、俺も吹っ飛ぶだろうが」
「そうなの?」
「そうだよ。腹立つことにな。……クソッ、あん時ヘマしなきゃな」
少女は目の前の金色の草に手を伸ばし、揺すった。
「貴方の名前は?」
「テメエごときに教えるか」
「そう? 私はね」
少女はそこで、はたと言葉を止めた。
金色の草原を風が渡る。金の草は揺れている。風の音はしないのに。
「私は……」
私は誰だった?
*****
「お父さんはね、村で一番乗馬が
「お母さんはね、織り物が上手なの」
「お兄ちゃんはお父さんの次に馬が上手で、お姉ちゃんはお料理が上手で、村一番の美人なの。それでね、今度の春、十六歳でお嫁に行くの。おばあちゃんは目が見えないんだけど、でもとっても物知りで」
濃紺の空に流れる黄金色の天の川。
その下にどこまでも広がる金色の草原の真ん中で、少女は繰り返し語り続けた。
不思議な声は何を思っているのかわからなかったが、いつも黙って聞いていた。
しかし、他でもない語っている少女自身が一番わかっていた。
繰り返し繰り返し、どれだけ語ろうとも。
すでに家族の顔も声も、とっくに思い出せなくなっている。
この場所の空は変わらない。
少女は眠くもならないし、空腹も感じない。
少女は自分の手の平を見た。
何の
――夢。夢なのかな。
ならば、いつか自分は目覚めるのだろうか。
目覚めたら、その時は家族の元に戻れるのだろうか。
金色の粒が周囲に
今までよりもずっと多い。
――何だろう。
こんなのは初めてだ。
見上げると、遠くにあったはずの天の川が目の前に迫っていた。
*****
暗闇の中、意識が浮上する。
暗い。暗い。何も見えない。
どうして暗いのだろう。
ずっと金色の草原にいたのに。
少女は周囲を見回そうとして、自分の
――私、目をつぶっているの? だから暗いの? 開けなきゃ、目。
目に力を入れて、ゆっくりと瞼を持ち上げようとする。
あまりの重さにびっくりした。
目をこすろうと手を上げようとしたが、その腕すらも自分のものでないような感覚がして、持ち上がらないほど重たかった。
やっと少しだけ開いた目に光が当たる。
反射的に目を閉じてしまった。世界が真っ白になるくらい眩しくて、目の奥が鈍く痛みを訴えていた。
ぼわんぼわんとした振動が耳の内を叩く。
それが音で、さらには人の声だと理解するには時間がかかった。
しかし、それを理解してからの覚醒は早かった。
開いた目は焦点がなかなか合わず、明瞭な像を結んではいなかったが、それでも自分をのぞき込む数人の人間がいることはわかった。
ついで皮膚の感覚も戻ってくる。手の中に固い何かを持っている。
視線を横に動かすと、顔のすぐそばに翠玉があった。
少女の目の前にあった透明な覆いのようなものが外される。
「大神官様!」
「大神官様!」
周囲の人々から声があがり、やがて一人の人物が彼女を覗き込んだ。
まだ焦点は合わなかったが、自分を覗き込む灰色の瞳だけは、なぜかはっきりと見えた。
私はこの瞳を知っている、と少女は思った。
――貴方も、ずっと一緒にいてくれたの?
そう言おうとしたが、少女の唇は小さく震えただけで、言葉を紡ぐほどの力をこめることはできなかった。
「目を覚ましたのか。なぜ……」
そう言った声は、以前少女を抱き上げた灰色の瞳の持ち主とは異なり、女性のものだった。
「何か異変が起きている。すぐに原因を究明せねば」
*****
目覚めた少女には世話係がつけられた。
少女はほとんど言葉を発することもなく、また自分から動くこともほとんどなかった。
まるで人形のように、翠玉の杖を抱えたままじっとしている。
見張りの必要がないほどであった。
しかし、それは少女の周囲にとっては好都合であったらしい。
彼らは少女の魂に絡みつき繋がる何かと、それが生み出す力を所有できればそれで良く、翠玉の杖を彼女が手放さないことにも何やら理屈をつけて納得をしていた様子だった。
大神官と呼ばれていた女性と、彼女を取り巻く人々が語る話の断片からわかることは、少女が突然目覚めた原因は不明であること、しかし、直接の関係があるかどうかはわからないが、少女が目覚めたちょうどその時、遥か南の国で火の精霊による精霊暴走が起きていたらしいとのことであった。
少女の本当の名はどこにも記録されておらず、また少女自身も名乗ることはなかったため、それまで文献や関係者の間で少女を指して使用されてきた呼称がそのまま使われることとなった。
モノ・ミア・ティシア。
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