Ⅲ-XVⅢ

 夜空を焦がす炎が遠くなる。

 王都ファキーリアの東側を北から南へと流れる大河の黒い水面を、河の幅からすれば木の葉のように心許こころもとなく小さな木の舟が、静かに人目をはばかるように闇の中を進んでいた。


 舟の上には三人分の人影があった。立って舟をいでいるのは一人だ。

 河の近くで暮らす庶民が普段の生活で荷を運んだり、釣りをするのに使うような、粗末な底の浅い木の小舟の上には、三人の他には荒い縄を編んで作られた薄汚れた網の山があった。


 その網の下で、王子アルラーシュはできる限り小さく体を丸めて横たわり、黒く変色した湿った木の板に片耳を押し付けて、大河の波が舟底を叩く重たい音を聞いていた。

 舟が本当に進んでいるのか、自分がどちらに向いているのかさえもわからない。ただ世界には暗闇しかなく、常にゆらゆらと恐ろしく揺らいでいる。


 彼の顔の前で、すん、と小さく鼻をすする音がして、次いで小さく溜め息が聞こえた。

 ミリィという名のウィングローグの少女だ。アルラーシュが体を動かさずに目だけを正面に向けると、慌てた気配が伝わってきた。彼女の種族は暗闇でも目がよく見えるらしいので、アルラーシュの視線に気が付いたのだろう。




 ルドルフとリュカがモノを追って街へと入った後、ヨシノはアルラーシュとミリィを再び隧道ずいどうの入口へと連れて行き、ここで待っているようにと言った。


 しばらくして戻ってきた彼女はこの小舟を漕いでいた。


「持ち主は近くには見当たりませんでした。……いずれ必ず礼をしましょう」


 彼女はそう言い、続けてミリィに網の下に隠れるように言った。


 突然そんなことを言われたミリィは戸惑っていたが、ヨシノははっきりとした理由を口にしなかった。


 ヨシノは厳しい人だが、意味もなく他人に何かを強制したりはしない人だ。アルラーシュはヨシノがその理由をミリィに伝えたくない訳があるのだろうと思った。それを伝えればミリィを怖がらせてしまう、あるいは悲しませ混乱させてしまうと、彼女は考えているのではないだろうか。


 アルラーシュは、眉を下げてオロオロとしているミリィに向き直った。


「ミリィ、大丈夫だよ。私も一緒に隠れるから」

「ええっ!?」


 アルラーシュの言葉を聞いたミリィはほとんど悲鳴のような高い声を出した。


「お、お、王子様がですか?」


「そう。騎士のヨシノではなく、私と一緒では頼りないかもしれないが」


「い、いーえっ!! そんなこと!! とんでもないです!!」


「では急ごう。ヨシノ、こんな感じで良いのか?」


 アルラーシュは小舟に飛び乗り、網を持ち上げて頭の上にかぶせ、二人に笑顔を見せた。


「いえ、それでは網の下に人がいるとわかってしまいますから、もう少し御身おんみを低くして下さい」


「こうか?」


「ええ、そのくらいならば大丈夫でしょう。夜は暗いですから」


「よし。ほら、ミリィもおいで。少し揺れるが平気だ」


 網を持ち上げてミリィの入る場所を作ってやると、ミリィは「うううう、無理無理ぃ。こんなの夢だと言ってぇ」と泣き言をこぼしながらアルラーシュの横にもぐり込んできた。


 しばらくして、ずうんと体中がしびれるような大きな音がした。実際、音なのか振動なのか区別が難しかった。


 アルラーシュが網を持ち上げてみると、ヨシノが街の方を向いて壁を見上げており、彼の視線に気が付いて振り返ると、黙って首を横に振った。わからない、ということらしい。


 またしばらくして、ヨシノが何か言葉を発したような気がして、アルラーシュが網を持ち上げて外の様子をうかがうと、今度はヨシノは街へと上がる階段を注視していた。

 暗いその階段を、いくつかの影がこちらへ降りてくる。

 ぼやけた月光の中、銀色の髪がちらりと光った。


「リュカだ」


 思わずそう言うと、横にしゃがんで小さくなっていたミリィも網の下から顔を出した。


「え? あれ、誰でしょう?」

 目の良い彼女はそう言った。

「四人います。一人多いです」


 階段を降りてきたのはリュカ、モノ、ルドルフ。そしてもう一人。

 小柄なその人物は、ルドルフのマントを借りて、それを頭からすっぽりとかぶっていた。


「……おい待て、なんで増えている」


 ヨシノが低い声を出した。


「説明は後だ。とりあえず街から離れる」

「舟は用意した。しかし何者かもわからん奴を同乗させるなど」


 ルドルフと問答しかけて、ヨシノは言葉を止めた。彼女の視線は焦げ茶色のマントからのぞく、明るい茶色の毛に覆われた手の指に注がれていた。


「……確かに時間がない。だが、きっちり説明はしてもらうからな」


 モノと謎の人物が網の下に潜り込み、ヨシノ、リュカ、そしてルドルフが舟に乗り込む。ルドルフがかいを操ると、舟はするすると闇の中へと滑り出していった。


「アル、お前も網の下に入っていろ」


 ルドルフにそう言われて、アルラーシュは自分が顔を出したままであったことに気が付き、慌てて舟底にした。

 リュカかヨシノか、誰かが網を自分の上に掛けてしっかりと隠してくれたのがわかった。




 そうして今、アルラーシュは舟にあたる波を聞いている。

 ふと気付けば、荒い縄で編まれた網は重く、ずっしりと彼にのしかかって、ちくちくと腕や頭を刺していた。

 さっきまでは気にもならなかったのにと思っていると、網の上から三人の会話が聞こえてきた。


土傀儡ゴーレム? あの揺れはそれか」


 ヨシノの声だ。


「アインハード、あの娘は何者だ。貴様の娘ではないのか」


「俺がそんな年に見えるのか? 旅の連れだ」


「旅の? 子供がか?」


「十六だそうだ」


「……何にせよ、勝手な行動はつつしむように言っておけ。今回は殿下が助けるとおっしゃったからこそ待ったが、二度は許さんぞ」


「行動の理由はかないのか?」


「もちろん後で本人から聞かせてもらう。幼く見えるが、子供ではないのだろう? 今はそれよりも重要なことがある。……ここから先、どこへ向かうかだ」


 ヨシノの言葉に、アルラーシュの体は強張こわばった。

 そうだ。これから自分はどうすれば良いのだろう。

 気持ちは一刻も早く城に戻りたい。母上は、父上はどうなったのだろう。エデルは、残った騎士団の者達は、兵士達は、使用人達は、ソニアは。

 一度思い出すと、次々と城の人々の顔が浮かんでくる。それと同時に、紅い光に包まれた王城の姿も。


 ヨシノの言葉を聞いて、ルドルフも彼女との言い合いを止め、切り替えたように話を始めた。


「そうだな……。夜が開け始める前に舟を捨てた方がいい。こんなものに乗って河に浮かんでいれば、明るくなればすぐに見つかるだろう。もし舟の持ち主が無くなったことを届け出れば、そこから俺達が舟に乗っただいたいの場所が割れる。相手からすれば探す範囲がかなり狭まることになるな。舟を出した位置が割れれば、あの隠し通路が見つかるのも時間の問題だ」


 ルドルフはそれ以上言わなかったが、隠し通路が見つかれば、ソニアの身の安全は保障できないだろう。


「王都から出て、頼れる所に心当たりは?」


「……まず、候補は二つ」


 河の湿気が絡みつくような重苦しい空気の中、ヨシノが口を開いた。


「一つはシュトレーリッツ卿のおられるメクレンバーグ。シュトレーリッツ卿は貴族の中でも陛下からの信が最も厚く、さらには殿下の許嫁いいなずけであるコルネリア様の御尊父だ。親子揃って実直なお人柄で、このような謀逆ぼうぎゃく看過かんかされるような方々ではない。殿下のご無事と居場所をしらせることさえできれば、きっとすぐにでも手を差し延べてくださるだろう。……今回、コルネリア様は祝祭をご欠席という話だったが、こうなった今となっては、僥倖ぎょうこうであったかもしれんな」


「もう一つは?」


「もう一つは……、バーデン家だな」


「バーデンか。聞いたことがあるな、確かエデルの実家だったか?」


「…………そう。エデル様のご実家だ。今はエデル様の兄、マクシミリアン様が家督かとくを継がれている」


 エデルが貴族の血をひいているという話は、ルドルフも知っていた。しかし、バーデン家というのは貴族としてはであると、他でもないエデル本人から何度か聞かされてもいた。


 いわゆる軍人貴族とでもいうのか、代々長男以外の男子は早々と家を出され、騎士団に入団させられる。そもそも貴族と言っても、その仕事の三分の一は領主、三分の一は領地の自警団の長、残り三分の一は農民の長ような状態で、兄のマクシミリアンは嫁探しに難渋なんじゅうしている――確かそんな話であった。


 もっとも、それらを聞かされたのもルドルフがエデルに引き取られて共に暮らしていた頃のことであるから、そのマクシミリアンという人物もとうに結婚しているのだろうが。


 ルドルフがそう話すと、ヨシノは軽く咳払いをした。


「まぁ、そのあたりの事情は私もよくは知らん。エデル様ご自身は故郷の地にあまり良い思い出がないのだと話されていた。何もない土地だからと。しかし、兄のマクシミリアンという人は……その、私の言葉ではないことをくれぐれも断っておくが、……馬鹿だが信用できる、と。何かあれば頼るべきだとも話されていた」


エデルあいつらしいな」


「今、この状況で頼れるのはこの二つくらいだろう。スタンリー家と対抗する他の貴族もなくはないが信じられるかと問われると……」


 ヨシノの声は苦く沈んだ。


「バーデンの方に助けを求めることは地理的に難しいな」


 ルドルフの声は変わらない。


「あそこは北側だ。スタンリーの領地であるポートランドが近い。主な街道だけでなく、途中の町にもスタンリーの兵や息のかかった者がいる。味方も力もない今、近付くべきではないだろう」


「うーん、でも」


 それまで黙っていたリュカが口を挟んだ。


「今夜の王都のことは、きっとすぐに知れ渡りますよ。エデル様が信用されているような兄上ですよ? 大人しくしているとは思えませんけど」


「しばらくはポートランドとにらみ合いになるだろうな」


「どうしてそう思うんです?」


「そもそもスタンリーとバーデンには動かせる兵力に差があるが、スタンリーは当分の間、アルを探しながら国内に睨みを効かせる必要がある。ポートランドばかりを重点的に守るわけにはいかないだろう。だから今はバーデンを潰しにかかるほどの兵力をけないはずだ。ではバーデンにとっては有利かというと、あくまで国内だけを見ればそうだが、あの場所であまり大袈裟おおげさに事を構えることは得策ではない。ハグマタナとの国境が近いからな」


 ファキール王国とハグマタナ新帝国との国境には夏でも雪を頂く大山脈があり、大軍で越えることは困難だ。だからこそ前の戦争では海戦が主となった。

 バーデン家の領地はその山脈の麓から中腹にかけてある。痩せて荒れた土地であるから、半農の貧乏貴族という評価は決して的外れなものではない。


「今夜のことはいずれ国外にも知れる。ハグマタナはすぐに情報を集めようとするだろう。ハグマタナとファキールは休戦中だが、国が荒れ、隙ができれば見逃す手はない。そうなると二十年前の再来だ。そのくらいのことはスタンリーもバーデンも百も承知のはず。今、国境近くで大規模な騒動を起こして、わざわざ漁夫の利をくれてやるようなことはしない」


「ならば南……メクレンバーグか。しかし……」


 ヨシノの声は固い。


「主な街道はすぐに敵に押さえられるだろうな。フェルナ河を行くことができれば少しは楽だが、アインハードの言うとおり、舟は目立つ。街道も河も使えないとなると……」


 ファキール王国の南側はけわしい山や森林が広がる自然の要塞だ。それらを越えて行かねばならない。

 城から逃げ出すにあたり、ヨシノは逃亡用の路銀を預かってはいた。しかし、それは使う場所があって初めて役に立つもので、金だけでは山や森林は越えられないのである。


「あのさー……」


 網の下から聞き慣れない声がした。舟底に臥せるアルラーシュの背中側からである。


「あ、勝手に口出してごめんな。さっきから話聞いてたんだけど、何だか大変そうだなって。オレ、急に乗せてもらって……」


「……誰かは知らんが、気にするな」


 ヨシノはルドルフ達が街で拾ってきた毛むくじゃらの客に言った。


「だが、今の話を聞いてわかっただろう。我々と共にいても安全どころか危険だ。明るくなる前にどこかの岸に舟をつける。そうしたらもう行きなさい」


「でも、南に行くのに困ってるんだろ。オレ、荷物は全部無くしちゃったし、ちょっとケガしたけど、王都から出られて良かった。モノの無事も確認できたし。……蹴られたけどな。まぁオレも悪かったんだぞ。同じくらいも悪いけどなー」


 それを聞いていたリュカが「ふふっ」と笑って、戯れるように舟から手を出して黒い水面を指ででる。ぱしゃんと水が白銀の帯を描いた。


 網の下の声は意気揚々と続ける。


「南に行くのは大変だぞ。ちゃんと休んで準備して行かなきゃダメだ。だからな、コボルトの村に来い。大丈夫。オレは道なんか外れても村まで迷ったりしないからな」

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