Ⅲ-Ⅸ
抜け道に
外の騒ぎは聞こえてこない。状況はまるでわからないが、エデルは無事だろうか。エデルに何かあれば女王陛下も危ない。しかし自分一人では様子を見に行くこともできない。
――魔法の心得があります、なんて格好つけちゃって。
杖を握りしめて
あのルドルフという男を前にすると、ソニアの中に張り合う気持ちが芽生えてくる。元々負けん気が強い方だとは自覚していたけれど、あの男が騎士団長エデルの
先日ルドルフとモノに説明したとおり、魔法を使うには魔力の制御が重要となる。そして魔力を制御するためには集中が必要だ。
それ故に魔法使いが実戦に臨む際には、魔力の制御に集中できるよう後衛に配置され、前方や周囲を警戒する者が必要となる。それでも訓練ならばいざ知らず、実際の戦となると十全に魔法の力を振るう条件はなかなか満たせない。そのあたりの事情が、軍の中でも魔法使いの扱いが他の兵隊よりも一段低いことの理由にもなっている。
建物の表側に近付くと、正面の大きな扉を固い物で叩く音が大理石のロビーの天井や壁に
――何て乱暴な。ここは
わざと場違いな怒りの理由を仕立てて、己を奮い立たせる。
急いで戻って来たことと、これからのことに対する緊張で乱れてしまった息と鼓動を整えるため、ロビーで一度立ち止まり深呼吸をした。
ソニアは唾を飲んで杖を持ち直し、もう一度深く息を吸って、なるべく平静を装って厚い扉へと近付き、返事をした。
「……はい、どなた?」
扉を叩く音にかき消されるかと思ったが、ちゃんと外まで聞こえたらしい。
音がやみ、外側から男性の声が返ってきた。
「
「は、はい。今開けます」
ソニアは鍵を回した。ガチンッと予想以上に大きな音がロビーにこだまして、心臓が跳ね、体がびくんと縮みあがった。扉をわずかに開けて、片手で取っ手を握ったまま、隙間から外をうかがう。
くすんだ灰色の短い髪をした、三十歳前後の男性騎士が、扉の隙間から顔を見せているソニアを見下ろすように立っていた。薄い眉と
「あの……何かありましたの? そういえば先ほどから遠くで大きな音が……」
ソニアは背後で杖を握る手に力を込めた。
次の瞬間、扉を強く引かれ、彼女はよろめいて半分扉の外に出た。ギュンターと名乗った騎士はソニアには構わず扉を全て開け、「入れ」と引き連れてきた部下の騎士達に命じた。
取っ手を握ったまま、扉に
「ちょっと! 一体何事ですか? 失礼ですよ!」
ソニアが抗議すると、ギュンターはじろりと三白眼を動かした。
まるで蛇だ、とソニアは思う。
「王子がこちらに来られたと知らせがあったもので」
「王子が? なぜ王子がこんな時間に図書館にいらっしゃるのですか? それに先ほど凄い音が外でしましたけれど、騎士団の方々がそれを放置してこちらにいらっしゃる意味がわかりません。何が起きているのか、きちんと説明してください」
「博士がご心配なさることはありませんよ。……それよりも王子だ。ここに来ただろう」
がらりと口調を変えて、ギュンターは低い声を出した。
ソニアの手の中にじっとりと汗がにじむ。
「……いいえ、ここには誰も」
「隠しだてすると
「どうぞ勝手にお探しになるといいわ。でもくれぐれも資料は傷つけないで」
ギュンターはふんと鼻を鳴らすと、部下に向かって「探せ」と命じた。
下級の騎士達が図書館の中に散っていく様子を見ながら、ギュンターもソニアの横を通り抜け、扉をくぐり建物の中に踏み入る。ソニアの横を通り過ぎる間、陰険な三白眼の小さな黒目がじっと彼女を観察していたが、何かを問い質されることもなく、ギュンターが完全に通り過ぎるのを確認して、彼女は小さく息を吐いた。
「何を安心してるのさ」
ソニアはぎょっとして視線を外に向けた。
先ほどまでギュンターの後ろには誰もいなかったはずだった。
それなのに今、彼女の目の前には黒いローブを纏い、フードを目深に被った人物が立っていた。風もないのにローブの裾がゆらゆらと揺らめいている。肌の露出は全くと言っていいほどなく、人相もわからない。しかし聞こえた声は若い男、それも少年に近いものだった。ソニアには心当たりのない声だ。
「ギュンター!」
黒いローブの人物は鋭い声をソニアの背後に向けて飛ばした。
金具の音が止まり、ギュンターがこちらを振り返る気配がする。
「この女は嘘をついてる。ここにあいつの気配が残ってる。きっと王子も一緒だったんじゃない?」
◇◆◇◆
謁見の間は、
白い大理石の床はその大部分が死体から流れ出た血で赤く染まり、泡が浮くほどの血は
倒れ伏す死体はスタンリー家の私兵のものが多かったが、騎士団の精鋭も立っている者は最初の半数ほどになっていた。
女王は戦いが始まった時から姿勢を崩すことなく玉座に座っている。
彼女の見下ろす先には、全身を返り血に染め上げた鬼神のような男が立っていた。
「ぐっ……」
青い顔をしたフレデリクが口元を覆って、よろよろと後退した。
「オ、オスカーよ……」
オスカーは叔父には応えぬまま、一歩進み出て血の海を踏んだ。
「さすがは騎士団長殿。これでも精鋭を揃えてきたのですがね」
そう言いながら、足元に転がる死体の手を爪先でつつく。それを見ていたフレデリクが口を手で覆ったまま顔を背け、その様子を横目で見たオスカーが
「叔父上は、お優しい」
オスカーがまた一歩進み出る。ぴちゃっと黒い革製のブーツの下の血だまりが鳴った。
エデルが剣を構え直し、騎士達がそれに倣う。
一番前にいた二名の騎士がオスカーに向かって突進し、彼に剣を突き立てようとした、その時だった。
ぼっと空気が熱を孕んで膨張する。
オスカーの白い顔が、橙色の光に照らされた。
直後に漂う悪臭。
崩れ落ちるようにオスカーの足元に倒れた黒い物体を、顔を横に背けたまま視界の端で確認したフレデリクはそのまま壁際まで後退すると、肩で息をしながら下を向き、玉座の間の全てを視界から追い出した。
オスカーは足元の炭化した塊を、何の
「逃げられたよ」
少年の声が答え、いつの間にか玉座の間の入り口に黒いローブの人物が立っていた。
「せっかく情報を持っていると思われる人間を教えてやったのに、ギュンターが殺してしまったんだ。まあでも仕方ないかな。魔法で攻撃してきたんだから、彼も応戦しないわけにはいかないよね」
「……お前の力をもってすれば追えたのでは?」
「は? 勘違いしないでくれよね。僕はこの国がどうなろうと興味ないんだよ。あんた達人間と違ってさ――」
エデルは眉間に力を込めて、新たな侵入者を睨みつけるようにして観察する。
ローブの人物はフードを目深に被っており、その顔を見ることはできなかった。その声にも体格にも、エデルは城内で思い当たる人物はいなかったが、ただ一つの引っ掛かりがあった。それはルドルフの連れていた少女と、色は違えど出で立ちがよく似ていることだ。異国の旅人――異国の魔法使いか。しかし、ルドルフの連れは多くの魔法使いがそうであるように、杖を携えていたが、目の前の怪しい人物は杖を携えてはいない。
少年の声を持つその人物は、ふわふわと入口から進み、何かをローブの袖の下から取り出して、オスカーに向けて無造作に放った。オスカーはそれを白い手袋に包まれた右手で受け止める。純白の手袋にみるみる赤い染みが広がるのが、エデルの位置からも見えた。
「それ、僕のおかげで今まで隠せてたんだから感謝してよ。待ってる間に魔力を持つ血もけっこう吸わせてやれたし、だいぶ良い仕上がりじゃないかな。さっきちょっと使ってみたけど、城壁をふっとばすくらいは簡単だったよ」
オスカーは自身の右手の中にあるものを見つめた。
その手の中には、生き物の心臓を思わせる紅い宝石がぴったりと納まっていた。それは脈打つように、内側から微かに光を発している。
それを玉座から見た女王が、初めて小さく眉を動かし、表情を変えた。
「それは……」
「…………精霊石ですよ、陛下」
「馬鹿なことを申すな。そのような
オスカーは目を細め、鼻を鳴らした。
「陛下、何をおっしゃいますか。火の大精霊が宿るとされる紅玉が禍々しいのは当然のことです。火の本質とはすなわち、侵入・征服・怒り・破壊……つまりそれが火を操る者の資質でもある」
オスカーは足元の炭の塊を踏み越え、玉座へと一歩近付いた。
黒いローブの人物は正面を向いたまま、役目は済んだとでも言いたげに、再びふわりと後退する。その靴が床一面に広がる血に全く汚されていないことに、エデルは気付いた。
「火は守りの力ではない。
精霊石を載せたオスカーの右手の指の間から、どろりとした赤黒い液体が細い筋となって落ち、床の赤い池と混じり合った。
「精霊は相応しい使い手を選ぶ。私はこの精霊石をあるべき姿に戻し、王家のような管理者ではなく、この石の真の持ち主となる。……その仕上げは、これから」
「
オスカーは女王の言葉を聞き、さらに不敵に唇を吊り上げ、右手に持った紅玉を掲げた。
「ならば今すぐ精霊石に問うてみましょう! 精霊の意志は
「いけません陛下、お退がりください! 陛下を守れ!」
エデルが叫び、生き残っていた騎士達が紅玉を持つオスカーへと剣を構えて突き進む。
オスカーの瞳がエデルと、その後ろにいるシャルザートを捉え、唇には冷酷な笑みが浮かんだ。
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