Ⅲ-Ⅵ
地鳴りのような音と震動の後、風にのって大勢の人間が争う声が聞こえてきた。
アルラーシュはすでに就寝の支度を整え床に就いていたが、すぐに起き出し、天蓋から下がる
西側の城壁の向こう側が、巨大な焚き火でもしているかのように、夜の中で赤赤と光っている。
アルラーシュは着ていた絹の寝間着を素早く解き、普段着として用意されている服に袖を通した。靴の具合を確かめ、壁に掛けられている自身のために
廊下側から控えめに、しかし緊張を孕んで、扉が叩かれた。
「入りなさい」
扉が音もなく開かれて、そこに立つ人物が
「殿下」
「ヨシノか。陛下は?」
「エデル騎士団長が精鋭を率いて護衛につき、すでに玉座の間に向かわれました」
「わかった。それでは私も」
「その必要はありませんよ」
明るい男性の声がして、ヨシノの背後に人影が立つ。
「王子は俺とヨシノ様と一緒にお城の外に逃げましょーね」
アルラーシュは眉を寄せた。
「リュカ? どういうことだ?」
「俺からはお答えできるのは、陛下とエデル様のご指示ですとだけ」
「何が起きている。この騒ぎは――」
「
ぴしりと音がしそうな厳しさでヨシノが答えた。
「侵入者側に
「オスカーが?」
リュカは軽く首を横に傾げ、アルラーシュを安心させるように軽い口調で続ける。
「今王都にいる私兵じゃあ数は知れてますけどね。どんな勝算があるのやら。でも王子、万が一ってこともありますから、あんまりゆっくりはしていられませんよ」
「勝算……」
アルラーシュは呆然とまばたきをして、窓枠に手を掛けて外を見た。
「まさか……精霊石……」
「精霊石?」
ヨシノが聞き返すと、アルラーシュは「うん」と答えて彼女の方に視線を戻す。
「……これは陛下と父上、それと私の他にはエデルしか知らないことだが、一週間ほど前に精霊石が何者かに盗み出された。母上、いや陛下は一度精霊石を直接使用された身だから、あの石の気配を誰よりも知っておられる。しかし、どうもうまく探せないらしく、戸惑っておられたようだった」
「えーっと、王子、それってつまり……」
リュカが言いにくそうに口を開く。ヨシノは「なるほど」とうなずいた。
「陛下とエデル様のお考えがわかりました。精霊石を持ち出せるのは」
「ヨシノ」
「はっ」
「今は考えないことにする。敵が精霊石を手にしているとは限らないのだから、これ以上の推測は無意味だ。私は陛下のお考えにそって、自分にできることをしよう」
「今のは本当ですか?」
開いた扉の向こうから、この場でするはずもない幼さの残る声がした。
「誰だ!」
ヨシノが剣に手をかけ、リュカもそれにならう。
「待て待て。俺だ」
「その声は……ルドルフか?」
アルラーシュの声に僅かに安堵が滲んだ。
窓から差し込む薄明りの中に、ローブをまとった少女と使用人の少女の二人をつれた男が現れる。
「ルドルフ様、いつから
「うるさい」
ルドルフとリュカのやりとりを横目に、フードを
「……貴方は?」
「私はモノといいます。お答えください。精霊石が盗まれたというのは……」
その時、先ほどよりも近くで閃光と轟音が起こり、床から震動が伝わってきた。
窓から見下ろせる暗い庭を何人もの武装した人影がこちらの建物へと駆けてくる。
「殿下、時間がありません」
ヨシノが強張った声で言った。
アルラーシュはうなずいて、モノの顔から視線をはずす。
「話は後だ。もう行かなければ。……ルドルフ、貴方も来てくれるだろうか」
「元々そういう約束だ」
廊下に出たヨシノは、ルドルフ達が上ってきた階段がある方向とは反対を示した。
「こっちだ。裏から抜けて、図書館に向かう。急ぐぞ」
「図書館?」
一昨日、ルドルフとモノがソニアの話を聞いた場所だろう。
ルドルフは走り出しながら尋ねた。
「図書館に何があるんだ」
「着けばわかる。抜け道の後、一旦回廊に出る。そこで敵に会えば迷わず斬り捨てて進む。いいな」
雲の切れ間から月の光が漏れ、大理石の回廊を照らし出す。
暗闇の中で白く浮かび上がる回廊と、その柱の影に、ところどころ闇が膨らんだように黒い人形のようなものが倒れていた。
ルドルフに同行していたウィングローグのメイドが小さくしゃくりあげるように悲鳴をあげたのが聞こえた。彼女の顔にアルラーシュは見覚えがあった。確かミリィという名の新人のメイドだ。夜目が利くことが
――暗くて良かった。
アルラーシュは反射的にそう思ったが、すぐに騎士達に守られながら回廊を駆け抜けようとしている我が身を思い出し、一瞬でもそんなことを思った自分を恥じた。
――彼らが何を守ってそんな姿になったのか、お前は知っているだろう。目を背けるな、アルラーシュ。見えなくて良かったなどと。
それがたとえ敵兵の成れの果てだったとしても、彼らには選択肢などないに等しかったはずだ。
建物の裏手から出るというヨシノの考えは正解だった。どうやら侵入者――スタンリー家の私兵はそこまで数が多くないらしく、城のあちこちに見張りを残す余裕はないようだ。祝祭のために集まった貴族達は護衛のために私兵も連れてくるが、その数は必要最低限と定められている。そもそも王都にそんなに大勢の兵を引き連れて入れるはずもなく、王都の外側に潜ますには人目につきすぎる。
その時だった、回廊の横にある使用人の控室から、怒号とともに殺気をまとった兵士が飛び出てきた。
とっさに棒を構える筋肉が硬直した次の瞬間、アルラーシュの視線の先をふさぐように大きな影が広がり、その向こうで硬質な刃物が滑る音とほんのわずかな呻き声がして、黒い塊が糸の切れた人形のように床に崩れ落ちた。アルラーシュの視界の端でマントが翻る。
「王子、止まらないで」
リュカの声に、止まりかけていた足で慌てて床を蹴った。
走り出す寸前、闇の中で金色の瞳が一瞬煌めいて見えたような気がした。
――狼だ。
アルラーシュは本でしか知らない北の大地の凶獣を連想した。
「ああもお、見ちゃったあ」とミリィの半泣きの情けない声が聞こえた。
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