追憶

 どこまでも、なだらかに続く草原。

 地平線と繋がった空を雲が足早に流れて、空の色と草原の色は絶えず変わっていく。


 木の骨組みに羊の毛でできたフェルトをかぶせた丸い家が、少女が生まれ育った家だった。

 父親は村の中で一番馬を扱うのが巧みで、母親は織り物の名人だった。祖母はほとんど盲いていたが、物知りで、少女のために毎晩たくさんの物語を語ってくれた。

 兄は父親の次に乗馬が上手く、すでに羊達の放牧を一人で任されてる。姉は歌と踊りと料理上手な村一番の美人で、来年の春には同じ村の幼馴染のところへ嫁ぐことが決まっていた。

 家族の中で一番幼かった少女は、今度生まれる子羊を一頭まかせてもらう約束を、彼女の父親としていた。



 時々、草原の地平線の近くを鈍く光る銀の鎧を着た人達が馬で走っていく。

 ここよりずっと北西にある、石造りの都の兵隊だと大人達は話していた。大人の言うことを聞かない悪い子は拐われてしまうんだよとおどされることもあった。



 短い草原の夏が終わる頃、銀色の兵隊達がたびたび村の近くに来るようになった。


 北にある大きな国が、周辺の部族や他種族を次々と統合していっているという話だ――と大人達はひそひそと囁きあっていた。



 草原を渡る風が冷たくなり始めた頃、とうとう銀色の兵隊達は少女の住む村にも入ってきた。


――全員、出て並べ。


 銀色の兜の下からくぐもった低い声がそう言った。


 広場には村の者が集められていたが、彼らの前に立って、銀色の兵士の一人と対峙していたのは少女の父親だった。


――一体何だというのだ。説明をしろ。


 父親は目の前の兵士を睨めつけていた。相手は他の兵隊よりも装飾的な鎧を身に着けていて、少女の目から見ても、その兵士が兵隊達の隊長格であることは明らかだった。


――これより、この土地は神聖ネルティア皇国の統治下に入る。お前達には新たに第三市民としての身分が与えられる。


――何を勝手なことを。


――……従わぬ場合は、ネルティアの法を以って罰することになる。


 静かな声だったが、流れるように剣の柄に添えられた手には、単なる脅し以上の意志がこめられていた。


 その時、兵隊が連れてきていた一人の男性が前に出た。

 その男は鎧を着ておらず剣も携えてはいなかったが、代わりに美しい黄玉のついた杖を持っていた。

 村人達の間から、魔法使いだと囁く声がした。


 魔法使いは表情を変えず、すうっと弧を描くように杖を一振りした。


 それだけだった。集まっている村人の背後にあった木組みの丸い家が崩れ落ちた。少女が聞いたこともない大きな音と、悲鳴。その家の主人が叫びながら崩れ落ちた家に駆け寄り、必死で布や柱を掻き分け始めた。布といっても雨風をしのぐための丈夫なものだ。人間一人で容易に動かせるものではない。

 いや、問題はそこではない。

 小さな村のことであるから、少女もその家のことはよく知っていた。

 その家には、生まれたばかりの赤ん坊がいたのではなかったか。

 泣き喚いているのはその家の主人だけ。母親と赤ん坊の姿は見えない。


――貴方は甘すぎるんですよ。


 魔法使いが銀色の兵士に言うのが聞こえた。


――全員出ろ、と言ったのに出ていなかったんですから、さっさと罰すればいいのに。まさか見逃すつもりだったのですか?


 貴様ら何ということを、と少女の父親が怒鳴った。それを皮切りに村人達から次々と怒号が上がる。あっという間に空気が熱を孕んだ。


――ああ、いやだ厭だ。これだからまともな教育も受けていない野蛮人どもの村に来るのなんか嫌だったんですよ。せっかく魔法を見せてあげたのに、その意味もわからないなんて。


 魔法使いは杖の黄玉を村人に、少女の父親に向けた。


――だめ!!

――■■■!!


 父親が少女の名を呼んだ。

 自分に襲い掛かるであろう衝撃に備えて、少女は本能的に目を閉じた。


 しん、と周囲から音が消えた。


 少女はおそるおそる目を開ける。自分は恐ろしい死に方をしたのではないか。

 でも、静かだ。敵も味方も固まったように静かだった。

 どこも痛くない。死んでいない。


 ゆっくりと、反射的に顔を覆っていた腕を少女が下ろすと、先ほどまで薄ら笑いを浮かべていた魔法使いの男が放心したような間抜けな顔で見下ろしていた。

 魔法使いは目を見開いたまま、操り人形のように腕を上げて少女を指した。


――……あの娘だ。連れていけ。大神官様の仰ったとおりに。


 兵士はへたりこんでいる少女を見下ろした。


――娘。来い。


 銀色の鎧の腕が少女に向かって伸ばされる。


――やめろ! 俺の娘に何をするつもりだ!


 父親がそれに抵抗する。

 少女は恐怖で固まっていたが、銀色の兵士がすらりと剣を抜くのを見て、とっさに体が動いた。


――やめて! ひどいことはしないで!


 立ちはだかる少女を見て、兵士は動きを止めた。そのことで少女は自分に価値があることを悟った。

 兵士は自分を傷付けることはできない。理由はわからなかったが、それは少女にとって勝ち目のある賭けに思えた。


――貴方達と一緒に行く。でもその代わり、もう二度とここには来ないで。私の家族にも村の人達にも絶対に関わらないで。


 兵士は答えなかった。魔法使いは唇を歪めてふんと鼻を鳴らした。


――十年や二十年じゃないわ。ずっとよ。ずうっと。永遠に。


――■■■、やめなさい。


 父親が言った。


――お前を犠牲にして、俺達がこの先幸せに暮らしていけると思うのか。それにそんな約束をこいつらが守るものか。


 しかし、少女は首を横に振った。


――……よかろう。


 兵士が言った。

 魔法使いが馬鹿にしたように顔を顰める。


――本気ですか?


――大草原の中の小さな村一つ、取りこぼしたところで影響はあるまい。本国からも離れているから知られることはない。……誰かが注進でもせぬ限りはな。


 銀色の兵隊は少女を抱え上げて、黒馬の上へと引き上げた。

 馬の嘶きと共に、砂埃が舞い上がる。

 空が反転して見えた。




 馬で駆けること三昼夜。

 少女と兵隊達は暗く湿った霧の都に到着した。


 少女はすっかり疲労していて、ここまで何度も馬から転げ落ちそうになった。銀色の兵士の固く冷たい鎧の腕で抱えられていなければ実際に落ちていただろう。

 自力で立ち上がることさえできない少女を抱き上げて、兵士は黒い石畳の上を歩いて行く。

 影のように黒く荘厳な城の奥深く、天井も壁も黒い石造りのその場所に、一人の男が待っていた。


――見つかったんだね。私の星見も大したものだ。


 鎧ではなく、美しい濃い青の衣を纏った男はそう言って笑うと、兵士に歩み寄って腕の中をのぞき込んだ。

 その冷たい灰色の瞳を、少女は覚えている。


――ふん、何とか生きているといったところだね。まあいいか。息さえあれば精霊のとしての用は足りる。


 少女は銀色の兜を見上げて口を動かした。

 それに気付いて、兵士は自分の腕の中に視線を下げる。少女には、銀の檻の中に、綺麗な春の若木を思わせる二つの茶色が見えた。


――何? 何て言ってるの?


 面倒くさそうに青い衣の男が問うて、少女の顔に耳を寄せた。


「約束してね。ずっと。ずっとよ」

 少女はそう言っていた。


――約束?


――この子供は自分がここに来る代わりに、我々が故郷の村に永久に干渉しないようにしろと。


――それで君は約束したのかい?


――……ああ。


 兵士は少女に言う。


――約束しよう。は手を出さぬと。しかし……


――もう聞こえちゃいないよ。気を失った。ほら、早くこっちに寄越しなよ。


 兵士は黙って少女を男に差し出した。

 男は赤ん坊をあやすような手つきで少女を抱き上げ、灰色の目を細めた。


――何てひどい男だろうね。 “ ずっと ” なんて守れもしない約束をしてさ。


――……少なくとも、俺が生きているうちは約束を違えることはない。


 兵士は少女を抱いた男に背を向け、立ち去った。


 残された男は部屋の奥へと少女を運び、壁面に埋められた黒い棺のような箱に少女を納めた。体を起こしながら、男は少女の髪に枯れ草が一本、絡まっていることに気が付いた。この都の周辺に草原はない。


 男は自分の指に絡ませるようにして枯れ草を取り去って、少女の冷え切った額に指をあてた。するすると指を動かし、少女の額に紋様を刻む。


――愚かで哀れな草原の娘。お前が再び草原を駆けることはかなわぬだろうが、運良く人としての精神こころが残れば、きっと何度も夢に見るだろう。


 それから男は幾重にも鎖の巻かれた細長い箱を持ってきた。

 その箱に巻かれている鎖を撫でながら、男が何事かを唱えると、それまでしっかりと巻き付いていた鎖が力を失ったように床に落ちた。


――エムロード。忌まわしい悪魔の石よ。解き放ってやるから、せいぜい役に立つがいい。


 男が箱の蓋を開け、中から翠石のはめられた杖を取り出す。微かな、しかし明らかな呪詛の声を、男は無視した。


 男が眠る少女に杖を抱かせ、棺の上に手をかざすと、何もなかったそこに玻璃はりでできた透明な覆いが現れた。


――神聖ネルティアに、永遠のいしずえを。皇国すめらみくにに大精霊の加護があらんことを。

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