真のエピローグ

 この店が常に薄暗いのは、地下一階にあるからだ。

 窓はひとつもなく、壁は全面コンクリートで、外界の空気からは一切遮断された店。


 外からの喧騒もまた、この店のなかへ入り込んでくることはない。

 店内に流れているのはピアノの音だけ。


 ムーディーな薄暗い照明の下で、店の片隅にあるグランドピアノがしんみりとした音を奏でている。

 この店の売りのひとつは、生のピアノの演奏が聴けるところだ。

 バーカウンターの端の方の席で腰掛ける犬彦は、ピアノの音に耳を傾ける。


 こうして店でピアノを演奏してくれる人は様々で、ランダムだった。

 ほとんどの日は、店長がどっかから連れてきたアルバイトだったが、ときにはプロがやってきたり、はたまた客が飛び入りで演奏することもあった。(そして飛び入りで演奏する奴というのは、舌を巻くほど素晴らしい演奏をする者もいたし、なんとか曲の体裁がとれる程度の下手くそもいた)


 今日ピアノを弾いている奴は、どうやらアルバイトの音大生らしい。

 テクニックは完璧に近いが、どこか音が固く、真面目すぎる響きがある。

 しかし彼が奏でる音には紛れもなく、好ましい若々しさが含まれている。


 マティーニのグラスに手をそえたまま、犬彦はジッとその音に集中する。

 顔なじみのバーテンダーはそんな様子の犬彦を邪魔しては悪いと思ったのか、離れた場所で別の客と談笑している。

 いま犬彦は、完全に一人だった。


 そうして犬彦が気持ちよく、音楽だけに耳を傾けながら孤独を楽しんでいると、ふいにピアノの音に混じってコツコツと、こちらに向かってくるハイヒールの音が聞こえてきたものだから、閉じていた目を開ける。

 犬彦が目を開けたのとほぼ同時に、空いていた犬彦のとなりのイスに、その女性が座った。


 首を傾けると、彼女と目が合う。

 深夜、ついに犬彦の待ち人がやってくる。


 離れた場所にいたバーテンダーを呼ぶと、犬彦は彼女のために一杯オーダーする。

 キールがいい、と彼女は言う。


 気をきかせたバーテンダーは、飲み物を彼女の前に置くと、また二人の前から離れていった。


 彼女はキールに口をつける。

 その唇は妖艶な赤い口紅で美しく整えられている。


 グラスを持つ指は薄暗い照明の下でも派手なネイルで輝き、華やかに肩へ落ちる明るい色の巻き髪は、細い首を傾けると華麗に揺れた。

 いかにも夜の女らしいドレスに身を包んだスタイルのいい体を、犬彦の方へ向けると、彼女はにっこりと色っぽく微笑んだ。


 彼女は人目を惹く美しい女だったが、この店にいるのは夜を知り尽くした大人ばかりだったので、いちいち彼女へと下卑た好奇心の目を向ける者はいない。

 バーカウンターの片隅で、二人は静かに会話を始める。

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