11/10-5

 

 「だから、もしも鈴木社長に本店への異動を強制させられるのなら、俺はすぐに退職する」



 「えええっ!!」



 「別にここを辞めることに何のためらいもない、俺はそもそもコネ入社だからな。

 コネでここに紛れ込んだだけだ、君のように立派な大学を卒業しているわけでもない、俺の最終学歴は高校だしな。

 なあ、そんなやつが、君のように立派な経歴を持つ社員たちを束ねていけると思うか?

 俺のような男が上司になるなど、皆が反発するだろう」



 「そんな、部長は…嘘をついておられるのでは…」



 「嘘など言っていない、始めに約束しただろう、君の質問にすべて正直に答えると」



 「ですが…」



 おろおろしながらも、森田は明らかにここまでの犬彦の発言を、嘘だと決めつけているようだった。

 エリート街道をまっしぐらに歩んできた森田には、犬彦のような一匹狼タイプ(さらにエッセンスとして破天荒を追加)の考えていることは、うまく理解できないのだろう。

 二人がそれぞれ歩んできたこれまでの人生は、地球と火星くらいの環境の違いがあったから。


 まったく、どうすれば納得してくれるものかと、ため息をついてから犬彦は、仕方がないと決意して、少し踏み込んだ話をすることにした。



 「森田くん、俺はだな…さっきも話した通り、本当は会社員なんかするような性格の人間じゃないんだ。

 実際ここに来る前は、もっと別の仕事をしていた。

 そちらの方が自分の気質に合っていたし、気楽だった、金払いもよかったしな。


 しかし、ある理由から俺はどうしても『会社員』になりたくなった」



 「どうしても『会社員』に…?」



 動揺しつつも疑うような目つきで犬彦をみつめていた森田は、穏やかな口調で淡々と話しだす赤間部長の様子に、これまでと違うものを感じて、ハッと口をつぐんだ。


 通常であれば、業務とは関係のない個人的な話題を、絶対に話そうとはしない赤間部長が、プライベートに関わる何かを口にしようとしていることに気付いたのだ。


 赤間部長は、とても重要なことを話そうとしている…。

 それを理解した森田は、真剣な表情で犬彦の言葉に耳をすませた。

 

 

 「そうだ、その当時俺に、一緒に暮らす相手が出来た。


 その頃も俺には、一緒に暮らす相手に不自由な思いをさせないだけの金はあった。

 しかし、一緒に暮らしていくために、一番大切なものを当時の俺は持っていなかった。


 世の中には、金以上に必要なものがいくつかある。

 だが金では買えないものだ、君ならそれが何か分かるな?


 それは『社会的信頼』だ。


 現代日本の社会において、『会社員』という肩書きは絶対の力を持っている。

 考えてみろ、『年商10億円の会社経営者』と『年収500万の会社員』、銀行が金を貸すのはどちらだと思う?


 つまりどちらの『社会的信頼』が高いかという問題だ。


 銀行は『年収500万の会社員』には、ほぼ確実に金を貸してくれるだろう、しかし『年商10億円の会社経営者』に金を貸してくれるかどうかはあやしい。


 俺は、一緒に暮らす相手と、そしてその親御さんを安心させるために『会社員』という肩書きが欲しかった。


 一言で説明できないような仕事をしている人間に、自分の子供を預けるのは、どこの親だって不安だろう。

 だが、君のような大企業に勤めていなくても、職業は何かと尋ねられて『会社員』ですと名乗ることができれば、親御さんも、相手と交友関係のある人々も、俺という存在に安心感を持ってくれる。

 世の中、そんなものだ。

 

 まあそういったわけで、ちょうどいいタイミングでこの会社に(栄治の)コネで入れそうだったから、俺は鼠のようにもぐり込んだ、それだけだ。


 ここで働いているうちは、一緒に暮らしている相手に生活リズムも合わせられる。

 だから、もし俺の同居人の生活スタイルが変わったり、あるいは相手が俺のことを必要としなくなる日がくれば、俺はこの会社で働いている意味を失くす。


 さらに言えば、俺が『会社員』でいる必要もなくなる。

 そのとき俺は、昔いた世界に帰ると思う」



 「赤間部長…」



 犬彦らしくもなく、長々と自分の過去について語ると(これが犬彦にとって、どれほどの譲歩か、森田には分からないだろうが)妙にしんみりした表情の森田が、ジッと犬彦をみつめていた。


 …なんだ、その表情は。

 だがこれで、俺が絶対に本店へ異動しないという絶対の意志が伝わっただろう、…そう犬彦は考えた。


 しかし、そんな犬彦の考えは、やはり甘かったと言わざるを得ない。

 

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