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朝のやさしい光が差しこむ、静かなキッチンの片隅で、じっくりと犬彦は最後まで…江蓮と同じく、ミートソースで汚れてしまって読めなくなったページのところまで、すべてに目を通した。
そして、誰もいないキッチンで、読み終わったあとに犬彦は、こう呟いた。
「…近藤、茜…」
もしここに江蓮がいたのなら、犬彦の全身から揺らめき放たれる、怒りのオーラの激しさに、恐ろしさのあまりどれほど震えただろうか。
今、ここしばらくないほどに、犬彦はブチ切れていた。
苛立ちすぎて、無意識のうちに犬彦は、持っていた手記をグシャリと千切り潰してしまいそうになったが、わずかに残されていた理性が、それを押しとどめた。
このクソッタレな手記を、今はまだ廃棄するわけにはいかない。
そんなことをすれば、俺がこれを読んだということが、江蓮にバレてしまう。
ここは、みつけたときのままと同じようにして、棚の奥に戻しておこう…。
手記を読みながら、犬彦は、江蓮が現在どのような状況にあるのかを、瞬時に理解した。
昨日の日曜日、江蓮が会う約束をしていると話していた友達というのが、近藤茜だったということ。
(こんな、呪い云々などという手記を、江蓮が自ら好んで読むわけがなく、そんなものを江蓮に寄越すバカがいるとしたら、近藤茜しかいない)
九月の連休、いろんな不運な偶然が重なり(犬彦にとってあの事件は、クソ面倒くさい目に遭わされた不運以外の何ものでもない)知り合ってしまった近藤茜(ひょろガキ)と、江蓮にはまだ付き合いがあったということ。
そして江蓮は、近藤茜と会ったのを自分に隠そうとしていること。
(理由は分かる、江蓮が近藤茜と接点を持つことに、俺がいい顔をしないせいだ)
さらに近藤茜は、あの九月の事件がきっかけで、江蓮がいかに機転の利く賢い子かを知ってしまい(そう、江蓮は恐がりだが賢い子だ)さらには江蓮の優しさに付け込んで、また自分のくだらない研究とやらのために、江蓮を利用しようとしている…ということに。
あのクソガキ…別れるときに、もうちょっと躾けておくべきだったな…。
だが、それにしても…。
手のうちにある汚れた手記を見下ろしながら、犬彦は眉間にシワを寄せる。
犬彦の目は、穢れたものを見るときの不快感で、冷め切っていた。
一読して、すぐに犬彦は、この手記の、真の存在理由を、理解した。
まったく…この、『呪いについて』の研究資料をまとめたファイル…ずいぶん胸糞悪い作りをしているものだ。
このファイルには、あきらかに、一貫してひとつのメッセージが込められている。
…それが本当の目的なんだな。
だがこのことに、近藤茜は気がついているだろうか?
いや、きっと気がついていない、あの馬鹿には気付くことができないだろう。
もちろん、江蓮にも分かるはずがない。
しかし二人は知らないからこそ、ファイルに込められたメッセージのままに、これから面倒な出来事に巻き込まれていく。
まるで予知夢を見るように、犬彦には、近い将来に江蓮がどんな状況に追いやられることになるのか、細かいところまでシュミレーションできてしまうのだった。
(近藤茜はどんな目に遭おうが、どうでもいい、知るか)
犬彦は目を伏せると、もう充分だとばかりに手記から目を逸らし、それを、たくさんの鍋たちと共に永遠に眠っていられるよう、棚の奥の暗い闇のなかへと戻した。
そしてキッチンでの後片付けをすべて終えると、犬彦も家を出る準備を始める。
出勤時間がゆっくりと迫ってきていた。
思考モードを仕事へと切り替えて、犬彦が『赤間部長』にシフトする時間がやってきたのだ。
当然だが犬彦は、どんなときでも自分の感情を切り替えて(あるいは捨てて)コントロールすることができる、仕事とプライベートは絶対に混同しない、しかしそれとは別に、絶対なる優先順位というものが存在する。
自分という人間はまず、仕事上の赤間部長よりも、そして一個人としての赤間犬彦よりも、江蓮の兄として有らなくてはならない。
それこそが、自分がこの世に存在する意義のすべてであり、そのこと以外に、自分は生きている価値などないことを、犬彦はよく知っていた。
スーツに着替え、ネクタイをしめながら犬彦は考える。
厄介なことになったが、江蓮の身に危険が及ばぬよう、なんとかして、先手を打たなければ、と。
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