11月6日月曜日

 人の上に立ち、指導をする者は、部下に口で指示を出す前に、自らがそれを行動で示さなければならない。


 『定時帰宅、残業撲滅、サービス出勤不可』という部是を掲げた営業部を率いている赤間部長もまた、日曜日に休日出勤をしたために、月の合計出勤時間を調整するべく、次の日の月曜日を午前休に設定していた。



 「おはよう、江蓮。

 昨日は休日出勤だったからな、今日は午前休なんだ、だから午後までゆっくりできる。

 朝飯できてるぞ、それから弁当も」



 「あ、ありがとうございます」



 昨夜、けっきょく帰宅が遅れてしまって、江蓮をひとりぼっちにしてしまったせめても詫びにと、犬彦は江蓮のために朝食を作り、弁当を持たせることにした。


 眠そうな顔をしながらリビングにやってきた江蓮は、用意されている朝食を見たとたんに、一気に明るい笑顔になって、うれしそうにそれを食べ始める。

 いつもの平日の朝だったら、おたがい登校と出社の準備で慌ただしくしていて、こんなふうに落ち着いて江蓮の食事風景を眺めることもできない、午前休というのもなかなかいいものだ、と思いながら、自分の作った朝食にバクついている江蓮を見つつ、犬彦はキュウリの浅漬けをかじった。


 朝っぱらだというのに、犬彦が今日の朝食の用意を一人で済ませて、いつもより時間ができたせいか、江蓮はごはんをおかわりしようとしていたので、犬彦は「腹一杯になりすぎて、授業中に寝たりするなよ、江蓮」と声をかけた。

 本当に、穏やかな朝だ。


 しばらくすると江蓮はうちを出ていったので、その姿を見送ったあと、犬彦はキッチンへと戻り、朝食の後片付けをすることにした。


 出勤時間まで、かなり余裕がある。

 江蓮には、食べ終わった食器をそのままにして行っていい、と伝えてあったので、自分の使った分も合わせて、洗い物がたくさん残っていた。


 それら使用済みの食器をまとめてシンクへ運ぶと、犬彦は洗い物を始めた。

 洗い終わったものは、表面の水分を拭き取って、次々に食器棚へ戻していく。


 そんな作業を、無言でひとり続けていたときだった。

 ふと、犬彦はいつもとは違う、ちょっとした異変を感じた。

 

 いつも清潔に保たれているはずのキッチンのどこかから、何かのにおいが微かにしている…気がした。

 これは、そう…異臭とまではいかないが、生ゴミみたいなにおいだ。


 食器の片付けを続けながら、犬彦は、その微かなにおいがどこから来るのか、素早くキッチン内に視線を巡らせた。

 しかし、ゴミ箱にはきちんとフタがされているし、それまでの生ゴミはまとめて捨てたばかりだった。


 どこか見えにくい場所に、生ゴミが落ちているのかもしれないと犬彦は考えた。


 早くみつけて捨てなければ。

 生ゴミをそのままにしていたら、虫がわくだろう、そうしたらお化けなどとは別枠で虫もけっこう苦手な江蓮が、出くわした瞬間に絶叫する。


 どこだ、どこに落ちている、などと考えながらキッチンの流しの下の棚を、洗ったフライパンをしまうために開けた犬彦は、少しだけそのにおいが強くなった気がして、ここかもしれないと、いろんな種類の鍋が置かれている棚のなかを、注意深く眺めてみた。


 すると、鍋と鍋が重なって置かれている、ずっと奥の方に、鍋ではない何かが隠れていることに気がついた。

 もちろん犬彦は、手をのばして、それを取る。


 においの元は、まさしくそれだった。

 昨晩のミートソースの汚れだろう、キッチンペーパーに包まれたそれからは、どこか酸っぱい古いトマトのにおいがする。


 なんだこれは、何故こんな汚いものを江蓮が(江蓮以外にいるはずがない)棚の奥などに、まるで隠すみたいに置いているのか。


 手に持ったまま、キッチンペーパーに包まれた汚いそれを眺め、犬彦は考える。

 手応えと重さ、シルエットからして、このキッチンペーパーに包まれた中には、紙の束があるようだ…雑誌か?


 そこまで考えたとき、犬彦はひらめいた。

 隠すように置かれている、汚い雑誌…まさかこれは、江蓮所有のエロ本じゃないのか!?


 キッチンにひとり突っ立ったままの犬彦は、キッチンペーパーに包まれた雑誌らしい何かを、ジッとみつめた。


 そう思いついてしまったら、もちろん兄としては、弟がどんな趣味嗜好をしているのか知るためにも、確認のため見ざるを得ないだろう。(言っておくが、江蓮が心配だからだぞ)


 そんなわけで、犬彦は、棚の奥に封印されていた、網代の残した手記を読むことになった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る