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とりあえず、その悪い予感のひとつは当たった。
森田が充分に満足するまで相手をしていたら、想定していた帰宅予定時間は大幅に過ぎ去り、江蓮の待つ自宅に犬彦が帰ることができたのは、結局遅くになってからだった。
おかえりなさいと笑顔で迎えてくれる江蓮へ、ただいまと言いながら、やはり今日もひとりで待たせてしまったと、江蓮の見えないところで犬彦はため息をついた。
それなのに、今日中に終わるはずだった残務処理も、結局すべては片付けられなかった。
これはまた次回以降に持ち越しとなる。
つまりは、未来の残業の種がストックされたままというわけで、さらに言うならそれは、また江蓮を一人で家に残して、さびしく自分の帰りを待たせてしまう根源だ。
それに今日のところは満足して帰ってくれたが、森田の襲来はこれからも定期的にやってくるとみて間違いない。
彼の相手をすることで一定量の時間は確実に持っていかれる、場合によっては、今の残業を消化するどころか、さらに増えるかもしれない。
仕事熱心なのはいいことだが(いや、あれはそれとは別に、何か目的があるのだろうが)それに費やされる犬彦個人の就業時間について考えたとき、これまでよりもっとタイトなタイムスケジュールで仕事に取りかからなくてはならないだろう、だがそれはまあいい、それより気になるのは、今日まで森田の動向がおとなしく見えたのは、どうやら営業部の皆が足止めをしてくれていたからのようだ、という事実の方だ。
おそらく自分のことを心配してやってくれていたのだろうが、もしそれが、森田の言う「個人で抱えている仕事の折り合いがつかない」に繋がるとしたら、問題だ。
新人に、過度の仕事量を与えるべきではない、それに、森田はそんな現在の自分の境遇について不満がある素振りを見せていた、そのあたりのバランスについても、永多くんに相談してみるか…。
そこまで考えたところで、犬彦はふと我に返った。
いけない、今は自宅で江蓮と過ごしている時間だというのに、つい仕事のことを考えてしまった。
仕事のことは、職場で考えればいい。
思考を切り変えなければ…。
そう思った犬彦は、照明のスイッチを消すように、パチッと仕事への思考をオフにして、目の前の状況にフォーカスする。
「江蓮、ミートソーススパゲッティ作ったんだろう、楽しみにしてたんだ、食わせてくれ」
「はい、ちょうどいま出来上がりました、そっち持っていきますね」
やろうと思えば、犬彦という男は常に、自分の感情の一部を切り離して捨てることができる。
ここにはもう『赤間部長』は存在しない。
ここにいるのは、江蓮の兄の犬彦だ。
うれしそうな顔をして、いそいそとミートソーススパゲッティをダイニングテーブルに運ぶ江蓮を、犬彦はぼんやりと眺めている。
そうしていると、あたたかい風呂の中にいるみたいに、犬彦のなかの何かが、ほぐれてゆるんでいくのが分かる。
こんな、自分でも上手く説明できない感覚になるのは、江蓮といっしょにいるときだけだった。
そして向かい合って席につき、いっしょに夕飯を食べる。
江蓮が作ってくれたミートソーススパゲッティは、美味しかった。
これまで何度も繰り返してきた、いつも通りの穏やかな、江蓮と犬彦ふたりで過ごす夜。
今夜もまた、たわいのない雑談をしながら(主にしゃべるのは江蓮だった)食事をしていると、ふいに江蓮がひとり言のように、こんなことをつぶやいた。
「犬彦さん…もしかして、疲れてるんじゃ…」
その言葉の響きが、少しでも不安げだったり、悲しげだったなら、即座に犬彦は反応して、疲れてなんかいないと否定しただろう。
けれど今の江蓮のつぶやきには、「明日は晴れるかなぁ」みたいな、本当にただ言ってみただけ、といったようなユルさがあったので、犬彦は麦茶を飲みながら、よく考えもせず、反射的にさらりと答えた。
「そうだな…まあ、今日はちょっと疲れたかもな」
それを聞いたとき、江蓮は目をまん丸くして犬彦を見た。
しかしそのとき犬彦は、江蓮の作ってくれたミートソーススパゲッティを見ていたので、そんな江蓮の様子に気付かなかった。
確かにその日、犬彦は、森田の襲来によって、ちょっとは(精神的に)疲れていた。
けれど、もちろんそれくらいで、犬彦が本格的に疲れるわけがない。
だからこそ、さらりと「疲れたかもな」なんて江蓮に言えたのだ。
このとき江蓮は、犬彦の「疲れた」を深刻に捉えてしまったけれど、気を張る必要のない信頼できる相手だからこそ、深く考えることもなく口にできる言葉もある。
それが、江蓮に対する犬彦の『甘え』であることに、江蓮も、犬彦本人も気がついていないけれど。
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