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「…なるほど」
俺は、あの店のコーヒーを、そこまで美味いとは思わないが…。
自分があの店に行くのはあくまで、都合がいいから(煙草が吸える、距離が近い)という理由だけだ。
ちらりと犬彦はそんなことを思ったが、まあそれはどうでもいい。
「森田くん、質問はもう一つ残っているぞ。
あそこの店主から、俺が今日ここにいると知ったとしても、何故わざわざ休みの日に出社してきたんだ。
俺に尋ねたいことがあるなら、もちろん答えよう。
しかし休みの日ではなく、出勤日の業務中に尋ねればいいことだろう、君の自宅はここから近くはないはずだ、実際、昼過ぎにあのヒゲ…店主から、俺の出社を聞いて、そしてたどり着いたのが今なのだろう?
その知りたいこととは、明日では駄目だったのか?」
犬彦がそう言うと、シュンと子犬のしっぽのように森田のテンションが分かりやすく、ちょっとだけ下がった。
それを見たとき、無表情の犬彦は心のなかで、少しだけ首をひねる。
…この感じ…どこかデジャブ的なものを覚えるが、それは何だっただろうか…そう思った。
「その、業務時間内でも部長にお尋ねできればいいのですが、やはり赤間部長はお忙しいですから…僕のように個人で抱えている仕事の折り合いがなかなかつかない人間では、お話しをするための時間をみつけることが難しくて…。
たまに時間を作ることが出来ても、前もって伺っていた部長のスケジュールが直前に変わっていることも多くて、お目にかかることがまずできないのです。
ですから、自分が休みの日であれば、何の弊害もなく、部長にお会いできると考えたんです!」
「…俺のスケジュールが直前に変わる…?
いや、それよりも森田くん、君はそんなに個人で抱えている業務が多いのか? その日のうちに、さばき切れないくらいに?
その業務内容について、直接俺に相談したかったのか?
それは、永多くんでは駄目だったのか? 彼は、俺が不在時の責任者代行だ、それだけの能力と権限を持っているし、信頼もできる、休日を潰さずとも、俺に合わせたりせず永多くんに…」
「いえ! 部長から直接ご指導いただきたいのです! 他の方じゃ駄目なんです!
僕にご教授ください、赤間部長!!」
嘘偽りのない、熱意がこもった瞳で、まっすぐに犬彦をみつめながら森田が叫んだときとタイミングを同じくして、デスクの上に置いたままだった犬彦の個人用携帯…スマートフォンが、微かにバイブ音をさせて、新しいメッセージが送られてきたことを犬彦に告げた。
それまで、デスクを挟んで少しだけ離れたところに立っている森田を、座ったままジッと見ていた犬彦は、視線だけをスマホへと移動させて、そこに表示されたメッセージを見た。
江蓮からのラインのメッセージだ。
そこには、『今夜の晩ごはんは、ミートソーススパゲッティです。もちろん犬彦さんの分もありますよ、お仕事がんばってくださいね』とある。
それを確認した瞬間、犬彦は理解した。
さっき森田くんに感じた、何かのデジャブのようなもの…あれは、江蓮だ、と。
そうだ、一度気がついてしまえばその通りだった。
今の、熱心な叫びといい、さっきの、ちょっとがっかりしたことがあると、本人的には隠しているつもりでも態度に出てしまうところ、あれは…江蓮と一緒だ。
高校生になった江蓮は、もうずいぶん大きくなったけれど、あれだけは、ちいさな頃からあまり変わらない。
自らのなかにある、熱い大きな感情が昂れば、どれだけ隠そうとしても江蓮の内側からそれは、炎のように溢れ出し、強く輝くのだ。
それはときに喜びの感情であったり、悲しみや怒り、自分への悔しさや、あるいは嫉妬だったりもした。
江蓮はそういうものを隠したいと考えているようだが、それは太陽の輝きをカーテンで覆い隠して消してしまおうとするのと同じくらい、無駄な努力になっていて、江蓮はそんな自分を恥じているようだったけれど、犬彦は、そんな江蓮が好きだった。
江蓮の感情が、美しい光彩のように色々な輝きを心の内から放つ。
それを、すぐそばでみつめることができるのは、犬彦にとって大きな幸福だった。
その輝きだけが、もう感情というものに心を揺さぶられることもなくなった、空虚な犬彦の魂をあたためてくれる。
江蓮や森田のような、自らの内に強い感情の輝きを持つ者には、分からないだろう。
それが、犬彦のように、どこまでも暗く荒廃した魂を持つ人間には、どれほど眩しく見え、そして好ましく感じるのか、ということが。
犬彦は、微かに息を吐くと、答えた。
「理解した、君の気持ちはよく分かった」
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