11月5日日曜日
日曜日の、営業部フロア内。
誰もいない、空っぽのデスクがいくつも並んでいる、広い営業部フロア内を、スーツ姿の犬彦は一人で歩いている。
早朝の海のように静かなフロア内を渡りきった犬彦は、そのまま自分のオフィスに入っていく。
扉のむこう、正面に広がる大きな窓にかけられたブラインドの隙間から、午前のぬるい日差しが照らす先、そこには年老いた大牛のように貫禄がにじみ出ている、がっしりとした部長用のデスクが控えていた。
その上へ、途中で持参してきたコーヒーを置くと、犬彦は席につき、パソコンを立ち上げる。
そしてデスクの端に積まれていた書類に目を通し始めた。
これは毎朝しているルーティーンだ。
今日も犬彦にとっては、いつも通りの朝だった。
ただ、いつもと違うところがあるとしたら、それは今日が、日曜日だ、という点だけである。
基本的に、犬彦の勤め先は、土日祝日が休みだ。
だから今日は、通常であれば犬彦にとっても休日であるのだが、この日に限っては珍しく、犬彦は休日出勤をしていた。
普段の犬彦は、高校生の江蓮の生活スタイルに合わせて、土日祝日はきっちり休みを取るし、平日だって、江蓮の下校時間のことを考え、定時で速攻うちに帰るべく仕事をこなしている。
ではそんな犬彦が、なぜ今日という日曜日に、出勤してきたのかといえば、もちろん、これまでに赤間部長らしくもなく、ためてきてしまった残務処理を片付けてしまうためであった。
今、たまってしまっている仕事量と、その内容を精査してみた結果、毎日ちまちまと残業時間を積み重ねて、夜の帰宅時間を遅らせ、うちで江蓮をひとりにする回数を増やすよりも、丸一日を犠牲にして残務処理を一気に終わらせてしまったほうがいいだろうという結論を、犬彦は出した。
しかも今日は、江蓮は友達に会うからと出かける予定であるらしい、それならば自分が仕事へ行ってしまっても問題ないだろう、そう犬彦は考えたのだ。
いつもとは少し空気の異なる、静かな日曜日のオフィスには、犬彦がパソコンのキーボードを叩くカタカタという音と、ときどき書類にペンを走らせる音くらいしかしない。
自分以外に誰もいない営業部は、本当に静かだ。
(ちなみに、この建物内には他にも人がいる、清掃業者や備品点検の業者、見慣れた守衛のおっさん、それに他のフロアには、犬彦と同じく休日出勤してきた他部署の社員がまれにいて、たまにその辺をうろついているのを見る)
普段の営業部の、あの賑わいや活気があって、常に大人数がざわざわと活動する気配のなかで仕事をするのも、もちろん悪くないのだが、こうやって非日常的に静かな空気に包まれて、たったひとり孤独に事務作業に没頭するのも、犬彦は好きだった。
孤独な空気のなかで、ひとりデスクにむかっていると、どんどんと自分の集中力が高まっていくのを感じる。
感覚が冴え渡り、一度ペースに乗ることができれば、十分に納得できる内容の仕事が仕上がっていく。
こういう感覚のなかに自分を導くことができれば、それが例え義務であったとしても、人はその中に、楽しみと喜びを見出せる。
そしてそれは、気疲れしていた犬彦の精神を癒してくれるのだった。
こうしてこの日の午前中、ひたすら犬彦はデスクワークに没頭し、気がついたら昼を大幅に過ぎていたので、足を伸ばすためにも一度外に出て、会社のすぐ近くにある個人経営の喫茶店で一服しながら適当にランチを済ませ(煙草を吸いながら簡単な食事もとれるということで、犬彦はこの喫茶店によく足を運んだ)そしてまたオフィスに戻ると、事務作業の続きを再開する。
今頃、江蓮は友達と楽しく遊んで過ごしているだろう、だが、うちに帰ってくるのは早いかもしれない、江蓮が出かけているとはいえ、今日が日曜日であることに変わりはない、なるべく早く仕事を済ませて帰宅しなければ、そして、楽しい気持ちで家に帰ってくる江蓮を、先に戻って迎えてやらなくてはならない。
そう考えた犬彦の残務処理スピードはますます上昇していったが、終わりの目処が立った頃には、もう夕方が近くなっていた。
そして、やっとゴールが見えてきて、あともう一息というところだった。
それまでずっとパソコン画面をみつめていた犬彦は、ハッとした表情で突然顔を上げ、そのまま耳をすます。
足音が、近づいてくる…。
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