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「森田くんも、やっとうちの営業部に慣れてくれたんだろう。
専務のあの含みのある言い方は気になるが、彼の出向理由について、深く追求することにも意味はない。
とりあえず、これで俺も少し肩の荷が下りた、あとは通常どおりに業務へと集中できる」
本当にホッとした、という気持ちがありありと伝わってくる穏やかな声で、犬彦は言う。
実際のところ、犬彦は本当に安堵していた。
犬彦は自分について、肉体的にも精神的にもタフだという自覚を持っていたけれど(真実その通り、犬彦はタフな男だったが)それでも弱点というか、苦手なものがあるとしたら、それは、やたらと自分に干渉してくる人間、という存在だった。
別に犬彦は、森田個人が苦手だとか、嫌いだとか、そんなふうに思っているわけではない。
(いや、そもそも職場の人間に対して、好きだとか嫌いだとか、そんな感情的な区別をつけるはずもない)
ただ、明らかに自分は見られている、観察されている、探られている(しかもその理由は謎だ)という状況が、丸一日中…それも何日も続くとなると、気疲れするのは当然である。
しかも、そもそも犬彦は、個人行動を基本として本質を発揮する男なのだから。
仕事において、自分の能力を最大限に発揮する…あるいは集中を高めるための入り方というものは、個人によって異なる。
その、精神を研ぎすませるような領域に自身を誘導するためには、集団の中にいる方がいいという者もいるだろうし、逆に、孤独を求める者もいる。
犬彦は完全に後者である。
ワークスタイルというものがあるなら、犬彦の精神は典型的な一匹狼タイプだ。
もちろんリーダーとして、群れを率いて先導もするが、一匹で戦略を練り、獲物を追い詰め、狩り殺すことを、最も得意なスタイルとする。
そうして自分が仕留めた獲物を、群れの仲間たちに喰わせるのだ。
しかし今、そういった犬彦の仕事上の精神集中力が弱まっているのは、狼が狩りへ出向こうとするその足元を、ちょこちょこと子犬がまとわりついているからだ。
子犬は、狼の様子をちらちらとうかがいながら、ぐるぐると足元を歩き回り、どこまでもついてくる。
そんな危なっかしい様子の子犬を、ほったらかしにして戦場に行くことも出来ず、いつも通りの狩りができないと、狼はため息をつく。
そんなわけで、何気なく精神的な疲労をじわじわと蓄積させていたらしい犬彦は、うかつにも(本当に犬彦らしくないことに)それが態度に少し出ていたのか、江蓮に見抜かれたときがあった。
「犬彦さん、なんか…どうかしました? 最近帰りも遅いですし…ひょっとして疲れてます?」
あれは確か、江蓮と一緒に夕飯を食べていたときだ。
ちょうどその頃は、森田が営業部に移動してきたばかりだったので、まだ永多たちに相談することもなく、犬彦が自分一人だけで、なんだか妙につきまとわれているような気がするのは自意識が過剰なだけなのだろうか…なんて、悶々と考えていた時期だった。
だからつい江蓮に話してしまったのだ。
「ああ、最近ちょっとな。
いつも通り、毎度の納期にケツを追われているし、新しく入ってきた社員の面倒もみなくてはならない、少し忙しいんだ」
精神的な疲労が、犬彦を油断させた。
通常の犬彦は、仕事とプライベートをきっちり分けたいと考えているので、江蓮の前で仕事の話題なんて、絶対に出さない。
それなのにこのとき、ぽろっと「忙しい」なんて言葉を、江蓮に向かって口にしてしまった。
(この言葉がきっかけとなって、江蓮は、疲れている犬彦の負担にならないようにと、これまでのように犬彦へ頼ることを止め、単独行動を開始し、事件の深みに嵌まっていく。
このときの自分の発言を、後に犬彦は後悔することになる)
でも、犬彦の言葉を聞いた江蓮は、にっこり笑うと、何も気にしていないみたいな様子でこう言った。
「そうなんですか、大変ですね。
じゃあ明日の晩ごはんも俺が作りますよ、何かリクエストはありますか、犬彦さん」
オレンジ色に燃える煙草の火を眺めながら、犬彦は考える。
あのとき江蓮は笑っていたが、内心ではさみしい思いをしているかもしれない。
あいつは、さみしさや悲しいという感情を、すぐ我慢して、ひとりで抱え込んでしまうから。
だが、森田くんも営業部に馴染んでくれたことで、これからは本来の仕事のスケジュールに戻れる。
残業消化の目処も立った、それらをすべて終わらせる、これでまた定時帰宅が可能だ。
もう、江蓮をひとりきりにすることはない。
「こんなにも早く、森田くんが営業部に馴染むことができたのは、君たちが気を遣ってくれたおかげだな、ありがとう」
「はは…」
しみじみと犬彦は、営業部メンバーを代表して、この場にいた永多にお礼を言ったのだが、なぜか永多は乾いた笑いをもらすだけだった。
とにかく、この夜の営業部フロア内の喫煙所は、平和に満ちていた。
犬彦も永多も、これで何もかもが上手くいく、すべては元通りになるだろうと考えていた。
それは、この場にはいなかったけれど、五月女や沖、その他の営業部メンバーも同じだった。
彼らは、自分たちが構築した、対森田用のフィールドバリアの鉄壁さに自信を持っていた、これで赤間部長を森田というストレスから守っていけるのだと信じていた。
だが、それは甘い考えだったのだ。
本店から出向してきたエリート社員というものを、甘くみている。
ここから森田慎吾の、本領が発揮されるのである。
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