2 黒い翼の守護天使

 気がつけば、あっというまに時間は過ぎていて、時刻はもうすぐ十六時になろうとしていた。

 ランチタイムということで、さっきまで混雑してたカフェの店内も、かなり客数が減って落ち着いてきていた。

 

 第一回探偵ミーティング(今回の話し合いについて、勝手にそう命名したのは、もちろん茜さんだ。ほんとやだ)が一段落したところで、俺と茜さんは、おしゃれカフェを出ると、駅にむかって歩きだした。


 わざわざ俺の最寄り駅まで来てくれた、茜さんを見送るためだ。

 俺自身は、駅から徒歩で家まで帰れる。


 帰路につこうとしている俺の手には、行きには持っていなかった紙袋が下げられていた。


 それは、「ああ江蓮君、かさばるだろうから、これに入れていきなよ」と言って茜さんが渡してくれた、ちょっとくたびれているビックカメラの紙袋で、なかには、網代さんの手記のコピーが入っている。


 これこそが、茜さんから俺への、おみやげであり宿題だった。


 研究者にとっては命より大切なもの、網代さんが心血を捧げて作成した『古代人が伝承する呪いの効果と範囲』の研究の集大成、いったいその内容はどんなものなんだろう?


 本当に俺なんかが、網代さんの手記の内容を、理解することができるんだろうか?


 そして、研究の完成のために、みつけださなければいけない欠けたピースとは、何なんだ?


 それを知りたくても、結局あのあと茜さんは、俺のどんな質問にも、のらりくらりとかわすばかりで、はっきりとは答えてくれなかった。


 どうやらその続きは、まず俺が、網代さんの手記を読まないことには始まらないらしい。

 

 空はもうかなり薄暗くなってきていた。

 駅へと続く大通りにも、街灯が明々と灯りだし、俺と茜さんを頭上から照らしている。


 時間的にも、それぞれの帰るべき目的地にむかって駅の改札へと進む、人々の流れができていて、俺たちもその中に混ざっていた。



 「そういえば江蓮君さぁ、君んちのお兄さんは元気かい?」



 歩きながらの雑談のなかで、ふいに茜さんは、犬彦さんの話題を持ち出してきた。



 「ええ、元気ですよ。

 ただ最近は仕事がすごく忙しいらしくて、機嫌が悪いことが多いですけど。

 今日も朝から会社へ行っちゃいましたし」



 「へーえ、日曜だってのに大変だね」



 「いつもは俺の学校の休みにあわせて、兄もなるべく休みを取ろうとしてくれてるんですけどね。

 今回は、俺もよく知らないんですが、なんとかの納期が間に合わないかもとか、新しく入ってきた社員の人の面倒も見なくちゃいけないって、なんか色々あるらしくて、働きづめなんです」



 「ふーん、そりゃ心配だね」



 「! そうです! 心配なんですよ」



 何気なく、つぶやかれた茜さんの言葉に、俺はかなり驚いた。


 俺の知るかぎり茜さんは、犬彦さんのことを相当怖がっているみたいだったのに、(他人からビビられる、それが犬彦さんのスタンダードだ)そんな茜さんが、犬彦さんの体調を心配してくれるなんて、と俺はうれしく思った。



 「体は頑丈な方だし、体力もめちゃくちゃあるって知ってはいるんですけど、やっぱり心配で…今日も朝ごはん食べずにうちを出てっちゃいましたし…。


 仕事のしすぎで、とつぜん倒れたりしたらどうしようって考えちゃって…」



 きっと同意してもらえるだろうと思って、犬彦さんへの不安な気持ちを口に出すと、なぜか茜さんはぽかんとした表情で、まじまじと俺の顔を見ていた。



 「あ、ああ、うん。

 そうだね、そりゃ弟の君からしたら心配だね。


 まあ、その心配は杞憂に終わると思うけど。

 どんな死亡フラグが立とうとも、君のお兄さんなら、死神だってワンパンで殺せるでしょ、たぶん。


 そうじゃなくてさー、オレが心配だって言ったのは、あのバイオレンスな君のお兄さんが、ストレスのあまり、パワハラとかしないかってことなんだけど」



 茜さんの言葉に、今度は俺が首をかしげた。



 「パワハラ?」


 

 「あれ、もしかしてパワハラって言葉、知らない?

 じゃあセクハラという言葉の意味は知っているかな、江蓮君」



 「それは知ってますよっ

 なんか、あれですよね…女の人に嫌がらせしたら駄目なやつです」



 「まあそうだね。

 セクハラ、つまりセクシャルハラスメント、性別に関連した嫌がらせのことだ。


 パワハラを説明する前に、セクハラについて話したほうが分かりやすいな、こういうことだよ。


 人間は生きていくうえで、その安全性や生産性の向上をはかるため、みんな何らかの組織に属してくわけだね、羊が群れをつくって暮らしているように。


 だけど組織っていうのは、当然立場の違いから、上下関係というものができてくる。

 校長先生がいて、教頭がいて、その他教師がいて、生徒がいるって具合にね。


 んで、立場(権力)の強い人間が、立場の弱い人間に対して、自分の権力を利用してする嫌がらせのなかで性別に関わることが『セクハラ』ね。


 セクハラの例をあげよう。

 もちろん状況によってそれは変わるけれど、わかりやすいのは、こんなとこかな。


 体を触るとかは当然だけど、女性の体をじろじろと見る、食事の席でわざと男性の隣に座らせる、恋人がいるのかなんてプライベートな質問をしてくる。


 女性だという理由で重要な仕事をまかせない、出世をさせない、女性が不快に思うような雑誌やポスターを職場に置くとかね。


 人がたくさんいる場所で、冗談まじりで女性にむかって、君は太っているなとか、もうオバサンなのにファッションが若いねなんて、言うことなんかも、もちろんセクハラだ。

 でもさ、特に年のいったジジイなんかは、コミニュケーションの一環として冗談で言ってるだけだから、悪気がまったくない連中なんかがいるんだよね。


 しかし、言ってる側と言われてる側では、立場が違う。

 ジジイには組織のなかでの権力があって、周りには人がいる、だから言われた女性は心が傷ついていても、笑って我慢するわけだ。


 どうだい、なかなかクソだろ。

  

 オレはこういう、せまい組織のなかで自分の権力を利用して、無神経に他人を傷つけるクソどもが大嫌いでね。


 男だからとか、女だからとか、自分の努力ではどうすることもできない生まれながらの何かを理由に、他人を貶めるようなことを言うやつは、特にクソだよ。


 オレはさ、いつも自分の目の前にいるその人物のことを、まずは『人間』だと思って接している。

 性別とか、年齢っていうものは、その『人間』にくっついているオプションの一種に過ぎないと思ってるのさ。


 なのに性別や年齢からしか、その『人間』の価値をはかれない奴は大馬鹿者さ。

 江蓮君、君だって、年齢だけで言ったら、まだ高校生だし、オレよりずっと年下だけど、そんなこと関係ない。

 君は『人間』的にとても優れている、だからオレは君に敬意を払っているんだ。


 おっと、話が脱線したね。


 そんなわけで、セクハラについてのおさらいはここまでだ」



 「よく分かりました、ありがとうございます。

 女の人は、いろいろと大変なんですね…」



 「あーっと、江蓮君、今は分かり易いように、例を女性の場合で出したけど、セクハラっていうのは性別に関する嫌がらせだからね、もちろん、女性が男性にするセクシャルハラスメントもあるんだよ」



 「え?」



 「例えば、こんなかんじさ。


 職場で(逃げられない場所で)においのキツい香水をつけてくる、目のやり場に困るような露出の高い服装をしてくるとか、人前で、男のくせにこんなことも出来ないのか、なんて性別に関係した叱責をする、なんてね。


 つまりだね、男も女も、性別に関係するもろもろってのは、異性だからこそ相手が嫌だと思うことに気付きにくいことが多いかもしれない。


 だけど同じ人間として、組織に属するものとして、円滑に生活を送るために、相手を思いやる気持ちが大事ってことだね。


 はーい、ってなわけで、君のお兄さんのことが心配になってしまう、パワハラについて、今度は話していこう。

 

 では、セクハラを踏まえて考えてみよう、パワハラとは、パワーハラスメントのことだね。


 パワーハラスメントとはなにか。

 同じく、職場の上司などの、立場が上の人物が、立場が弱い部下などにする、嫌がらせのことだ。


 では例えを出していこう。


 残業や休日出勤など仕事の時間を無理に増やす、病欠を許さない、不当に給料を減らしたり降格させる、部下の仕事上の相談を無視する、責任逃れをする、周囲に人がいる前で怒る、仕事のミスを必要以上に叱責する、暴力をふるう…」



 「ええっ!!」



 俺は驚いて大きな声をだしてしまった。

 だって、いま出てきた後半のほうの例は、完全にうちの犬彦さんを連想させたからだ。



 「そんな、暴力をふるうのってダメなんですか!?

 犬彦さんがいつも、呼吸をするみたいにナチュラルにやってる、日常の一コマじゃないですか!」



 「おいおい、マジで言ってんの?

 江蓮君…けっこう君もお兄さんに毒されてんだなぁ」



 「ちょっと! 毒とか言わないでくださいよ!

 犬彦さんは仕方ないんです、猫が家の柱をひっかいたり、車のエンジンをかければ排気ガスがでるみたいに、悪気のない自然な行為なんですよ、慣れればそんなに痛くないし!


 そもそも悪いことしなきゃ、犬彦さんだって暴力をふるったりしないんです!

 …むしゃくしゃしてるって理由で、突然プロレス技かけてくるときはありますけど…」



 「…やばいな、本気で心配になってきちゃったよ。

 君、夫のDVに耐えてる主婦みたいな言い訳してるよ。


 いいかい、セクハラもパワハラも犯罪だからね。


 仮にだけど、お兄さんが面倒みてるって新人の社員が、くっそ仕事が出来ない使えない奴で、お兄さんに迷惑をかけまくって怒らせたとしても、当然、立場はお兄さんの方が上なんだから、暴力ふるったりしたら駄目なわけさ。


 最悪、裁判ざたになって、大金取られて、仕事も退職させられて、社会的信用も失うかもね…」

 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る