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 他人から物を奪うことは、悪だ。

 自分を優先して、他人を顧みない行為は、悪だ。

 道徳に反している。

 悪行を犯してはならない。


 …そんな世間的な正しさを言い訳にして、今、自分の目の前で苦しんでいる彼女を、痛みに喘ぎ、胸をかきむしって涙を流す彼女を、自分に救いを求めることしかできないその姿から、一瞬でも目を逸らそうとする行為こそが、男にとって最大の悪だった。


 時間など待つことなんてできない。


 庭の管理者であるお前に、事情を説明して、それで確実に薬草が手に入る保証なんてない。

 むしろ、花を欲している人間がいることを知られてしまったら、警戒されて、庭を守るフェンスはさらに高くされ、もうそこへ忍び込んで盗みだすチャンスさえ失くしてしまうかもしれない。


 自分にしか出来ない正義を貫くためには、今この瞬間に、実行しなければいけない。

 たとえ他人を傷つけ、悪人と蔑まれることがあったとしても。


 これが、立場の相違からくる、悪というものだ。


 大切な花を、突然奪われたお前からしたら、間違いなく、その男の行為は悪だ。


 しかし、そんな男からすれば、高いフェンスで庭を囲って、貴重な薬草をひとりじめしていた、お前の方こそが悪なんだ。


 さて、こういうタイプの悪に遭遇した場合、どうすればいいか?


 これはもう、しょうがないことだ。

 江蓮、これから生きていく上で、お前はこういったタイプの悪に遭遇することがあるだろう。


 お前はそんな悪党によって、嫌な思いをさせられる。

 または、そういった予期せぬ状況下で、お前は否応なく、悪とみなされる。


 そんなときはだな、あきらめて、もう無視するしかない。

 そういうもんだと腹をくくって、なるべく関わらないようにする。


 ときには相手と話し合うことで、解決の糸口がみつかることもあるが、大変な労力と時間が必要になるだろう。


 止めたほうがいい。


 これが、一つめの、わりとよくある悪だな。

  

 次、二つめ。

 これは単純に、法を犯すという悪だ。


 わかりやすい例えは、まさに交通ルールだな。


 赤信号になっても、それを無視して車を走らせたり、制限を気にせずスピードを出す、そんなことをしたら罰金ものだ、下手すりゃ捕まることだってある。


 ルール違反という悪には、明確な禁止事項と、それを犯した際の罰がはっきりと決められている。

 こういうことをしたら、こんな目にあうんですよと、きちっと細かく決められて、万人の目の前に掲げられている。


 この悪には、基本的に感情がない。

 ただ、決まりがあるだけだ。


 とても身近で、子供にも分かりやすい、悪の種類だな。



 そして最後の、悪。

 

 この悪は、説明するのが、とても難しい。


 これは、もっとも穢らわしい悪だ。

 人間が、人間だからこそ犯す、人間のみが行使することのできる悪だ。


 その悪は、自らの姿を偽装する。

 その悪は、ときに美しくさえ見える。


 だから、それが悪だと、見破ることは難しいかもしれない。


 だけどな、江蓮、お前にならきっと分かる。

 

 どれほど正しいことを言っているように聞こえても、どれほどやさしく微笑んでいたとしても、それを目の前にしたとき、お前は胸がざわつくような違和感を覚えるはずだ。


 その悪は、周囲の人々に知らず知らずのうちに浸食し、彼らの魂を穢していく。

 それだけの力を持っている。


 だから、江蓮。

 もし、そんな悪が、お前の目の前に現れたとしたらー…」



 犬彦さんは、ひどく真剣な顔をして、俺に言った。



 「すぐにその場を離れて、逃げろ」



 

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