第9話 ひもかがみ 9
掠れた声に、春の司は何も答えなかった。眉を寄せ、眼を見開き、唇を真一文字に引き結んだまま、じっと冬雷を見つめていた。
何も言えなかった。春覚には、何も言うことができなかった。だからただ、口を噤んだ。
山犬を模った面の下で、冬雷はそっと瞼を下ろした。
ついさっきまで腕にあったものを思い出す。小さな小さなそれの、小さな小さな温もりを、思い出す。
ああ、とため息をついた。
酷く惨めで、泣きたくなった。
けれど泣けない。冬雷は、冬の司だから。泣くなんて、そんな人臭い感情、持ち合わせてはいないのだ。
帰ろう。誰に言うでもなく、冬雷が呟く。
「あの万年雪の頂へ、帰ろう。」
そうして次の冬が来るまで、眠りにつこう。
胸に刺さった小さな棘が溶けるように、夢を見よう。
腕に残る小さな温もりを忘れぬように、夢を。
手に持っていた鏡を、冬雷は春覚へ差し出した。彼女は一度目を瞬かせると、それを受け取った。一瞬、びゅうと風が吹き抜ける。女の長い黒髪が、冷えた空気に舞った。
そうしてそれが彼女の肩に落ちる時には、鏡のつるりとした表面に、空に戻った月の姿が、綺麗に映り込んでいた。
サビシガミ とらじ @torazi
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