第8話 ひもかがみ 8

 腕の中のぼろ布に包まれ、小さな赤子が規則正しい寝息を立てていた。その柔らかな息遣いに、更に少年の瞳から涙が零れ出た。瞬きをするたびにぽろりぽろりと零れるそれは、冷たい空気に曝されて、あっという間に氷の粒に変わった。粒は星屑のように輝きながら、白い雪の中に落ちて消えた。

 ああ、と少年がため息をついた。鼻をすすり、眼を瞬かせる。星屑が零れた。

 

 

 

―――ああ、神さま

 

 

 

 

 少年の声。掠れて小さな人の声。けれど、はっきりと空に響き、鏡の向こうまで届いた。

 ありがとうと、彼は呟いた。何度も繰り返した。有難うと言いながら、眠る赤子に頬擦りをした。寒さに赤く染まった頬が赤子の肌に触れると、白い赤子の頬も俄かに赤みを帯びた。

 

 

 

 

―――ああ、神さま、ありがとう

 

 

 

 

 春覚が、大きなため息をついた。

 

 

 

「わかったか」

 

 

 

 これが、自然だ。

 顔を上げ、隣を見やった。冬雷は食い入るように鏡を覗き込んでいた。

 

 

 これでいいのだ、と春覚は言った。

 

 

 

「人は時の理の中で、おれ達は永久の理の中で。それが、須く、だ」

 

 

 

 淡々とした彼女の言葉を、彼は黙って耳を傾けていた。白くのっぺりとした山犬の面は、静かに、ただ、鏡を覗き込んでいた。

 鏡の向こう側には、大泣きをする少年の姿。何故かそれが目の前の冬の司に重なって、春覚は唇を噛んだ。無理矢理顔を歪め、笑みを作ると、力なく立ち尽くす冬雷の肩を、ぐいと引き寄せた。

 

 

 

 忘れろ、と、囁いた。

 

 

 

「さっさと忘れろ。有限の時に触れたことなど、もう忘れろ。万年雪の頂に帰れよ、冬雷。お前の寝床に」

 

 

 

 そうして全て、忘れて眠れ。

 

 

 

 勤めて明るく言葉を紡ぐ春覚に、ああ、そうだな、と冬雷が答えた。

 鏡の向こうでは、少年がしっかりと胸に赤子を抱きしめ、山を降りようと歩き始めていた。それから逃げるように視線を上げた。鼻先を空に向け、天を仰ぐ。月は相変わらず、朧越しに空にあった。

 

 

 

 ああ、そうだな。

 

 

 冬雷が呟いた。帰ろう、と。

 

 

 

 しんと静まり返った冬の空気が、冷たく天を凍えさせていた。白い雪も、木々の間の深い闇も、沈黙したまま夜に沈み込んでいる。それを肌で感じながら、ふと冬雷が、でも、と唇を震わせた。

 

 

 

 ああ、でもなぁ、春覚。

 

 

 

 言葉を捜すように、ゆっくりと彼は言った。

 

 

 

「でもなぁ、春覚。あれは酷く、温かかったんだ」

 

 

 

 名前を呼ばれ、女が顔を上げた。山犬は天を仰いだままだった。そのままで、あれは本当に温かかったのだと、もう一度繰り返した。

 

 

 ほんの気まぐれだった。

 白雪の中に埋まったぼろ布を抱き上げたのは、本当に気まぐれだった。

 何気なく手を伸ばしてしまった。

 指が布を掴んでしまった。そのまま抱き上げてしまった。

 

 

 

 その瞬間、ただ、泣きたくなった。

 

 

 

 

「なぁ、春覚。お前は知らぬだろう」

 

 

 

 冬の、夜を。

 

 

 雪も降らず、月も出ず、夜の帳が下りるだけの冬の夜を。

 

 

 きっとそれを知っているのは、四季の司の中でも、冬雷だけだ。

 

 

 凍えた空気は、音もなく。

 

 

 冷めた月明かりは、よそよそしく。

 

 

 深く沈む闇の色は、淋しいだけで。

 

 

 誰もいない。何も無い。肌に感じる寒気さえも、小さな棘で冬雷を突き刺してゆく。

 

 

 深々と、心神を、奪い去ってゆく。

 

 

 

 

「俺は、冬だ」

 

 

 

 

 冬の司だから、冬そのもの。永久に、冬と共にあるべき存在。

 

 

 

 だけど。

 

 

 

 なぁ、春覚、ともう一度呼んだ。

 

 

 

 なぁ、春覚よ。

 

 

 

 

「俺だって、時折、少しだけ、淋しくなるのだ」

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