第7話 ひもかがみ 7
おおい、おおいと少年が声を上げ続けていた。ひび割れた喉から発せられた声は、掠れて鈍くしか響かなかった。
「あれは、赤子が捨てられたことを、知らなかった」
もう一人の妹を連れ、用事で少し家をあけていた。帰ってきた時には、家に赤子の姿は無かった。暗い顔をした両親を問い詰めると、山の神に差し上げたと、虚ろな瞳で告げられた。
「この山に、山神はおらんだろうが」
「人は知らぬさ。どの山に神座があり、どの山には神座がないか、なんて」
「知らぬ身で、そのようなことを抜け抜けと口にするのか」
痴れものが、と春覚が舌打ちをした。温度の無い声で、冬雷が相槌を打った。
「けれど、あれは、山の神を信じている」
鏡の向こうの少年を、鼻先で指した。
見たことも無い山の神を信じて、ああして毎夜毎夜、末の子を探して山を登るのだ。神が赤子を連れて行ったと、そう信じて。
「かれこれ、もう、一月になる」
春覚は、薄らと双眸を開けた。ゆっくりと瞬きをする。噛み締めるように、言った。
「返して、やれ」
ふわり、春の新芽が、雪空に香ったような気がした。
冬雷は黙ったまま鏡を見つめていた。
そっと春覚が白く細い指を伸ばし、鏡に触れた。優しく少年の手の甲を撫ぜ、そこから鏡を抜き取った。彼は何の抵抗もせず、されるがまま季節の証を手放した。
人は、有限だ。
ゆうるりと双眸を瞬かせ、女が呟いた。
「時の中を生きるものは、時の流れに在ることが、自然、だ」
否も是も口にせず、少年は腕の中の赤子を両手で抱き直した。
やんわりと温もりが感じられた。けれどそれは酷く弱々しくて。泣きたくなる気持ちを飲み込むように、鼻を鳴らした。
さぁ、と春覚が促した。
もう一度、腕に力を込める。
本当ならば自分の腕の中にあるはずのないもの、あるべきではないものの感触を確かめた。
腕に抱いた小さな身体を、そっと差し出した。
春覚が支える鏡に向けて差し出した。
つるりとした鏡の表面に、両手で赤子を押しつる。表情の無い満月のようなそれに寝子の頭が触れると、水面が揺れる如き波紋が表面に広がった。するすると頭が吸い込まれ、次いで胸が、腕が、腹がと続く。ぼろ布に包まれた足先が鏡の中に消えるまで、そう時間は蚊からなかった。名残惜しそうな冬雷の指がぼろ布の端が離れ、水面の中に吸い込まれていった。音も、なく。
空に向けるように鏡を持ち直し、春覚が中を覗き込んだ。揺れる波紋は緩やかに消えてゆき、つるりとした表面に戻った。
同時に、あっ、と少年の声が鏡の向こうで響いた。それに冬雷の視線も引き寄せられる。
二人の司が覗き込んだ鏡の向こう側。相変わらず雪は深く、空は凍え、少年の息は白く染まっていた。頬も耳も真っ赤に染めた彼は、ああ、とため息を洩らし、高く夜空を仰いでいた。真っ直ぐ何かを見つめていた。
視線の先、闇色に塗られた空の中に、小さなぼろ布が浮かんでいた。ゆうらゆらと揺れて、ゆっくり少年へと落ちてくる。唖然としていた少年の表情が、みるみるうちにくしゃくしゃに崩れた。歯を食いしばり、眉を寄せ、その両目だけが爛々とぼろ布を睨みつけていた。ずいと両腕を空に伸ばした。酷く緩慢な動きでそれは彼の腕の中に落ちる。掴んで引き寄せ、布の中を覗きこんだ。
その瞬間、少年の両目から、ぽろり、と涙が零れた。
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