第3章 法医学教室

第11話 法医学教室

 遺体遺棄現場から自宅に戻ると、佐木は再びラストサンクチュアリに張り付き、監視と考察を続けた。


――長谷川が家にいないって、奴はもう気づいてるだろうな。友人宅や実家なんかを張り込んでるか。さあ、この後どうする。


 長谷川に執着して探しまわってくれることを期待しているが、諦めて別の獲物探しに移る可能性もしっかり頭に刻んでおく。

 だが、今日現場を見た印象では、思い付きで即犯行に及ぶことはないとも感じた。花師は、時間をかけて遺棄場所や方法を考えてからでないと、決して殺人を実行しないだろう。

 しかし、のんびり構えているわけにはいかない。長谷川を見つけられないならそれなりに、花師は何かしらの発信をすると思うのだ。

 モニターには、2つの掲示板だけではなく、天雲、長谷川、4人目の被害者の画像が映し出されている。


――ま、俺なら獲物2匹を横からさらわれたら、間違いなく怒り狂うな。ゲームを宣言していきなり負けじゃカッコがつかないし。


 薔薇の生け花になった被害者を見つめる。

 佐木は生け花には全く詳しくないが、花を三角を描くように配置すると良いと聞いたことがある。

 今、目の前に映っている被害者の手足や薔薇も、バランスよく配置されていると思う。どこから見ても美しく見えるように、計算しているのだろう。歪んだ美意識を具現化したというわけだ。

 他者の尊厳を踏みにじることに何の躊躇もなく、己の快楽にのみ忠実で、欲望のままに行動する。殺すことよりも遺体で生け花をすることが主目的で、完璧な作品づくりに情熱をそそぎ、そして世を震撼させる傑作を発信していきたいと考えている。それが花師だ。

 意のままに、人体を組み変えて己の作品とする作業は、最高に気分のいいものだっただろう。他者を完全に自分の支配下に置き、思いのままにできるのだから。

 圧倒的に優位な立場から他者を見下ろす快感は、得も言われぬものがあるだろう。自分が作り出した芸術品に、恐怖することしかできない人々を眺める快感も、手をこまねくばかりの警察を嘲笑う快感も、一度知ってしまったら二度と手放せない禁断の甘露というわけだ。


――ああ、たまんねえよな。こんな気持ちいいこと、やめられねえよな。


 想像するだけで、身体の芯がジンジンと熱くなる。蕩けそうになるのと同時に、吐き気もこみ上げてくるのだが。


――さあ、どうしてやろうか。手当たり次第に粗悪品を発表しては、自分の価値が下がる。しかし警察に負けるわけにはいかない。となると、さらにえげつないこと、やるしかないわけで……。


 佐木は、自分が花師ならばと時間を忘れて思考の海に深く潜っていくのだった。




 ふと喉の渇きに気付いた頃には、とっくに日付が変わっていた。つい熱中し過ぎてしまったようだ。

 ゆっくりと立ち上がり伸びをする。身体がミシミシと軋んだ。そしてのろのろと台所へと向かうのだった。

 水を飲んだ後、佐木は部屋に戻り窓を開けて立ったまま一服する。空を眺めて、ふうと煙を吐いた。外は人けがなく静かだった。町がすっかり眠りについたのこの時間帯が、一番心が安らぐ。ずっと夜が明けなければいいのにと思うこともある。寂しいくらいの静けさが丁度いいのだ。

 佐木はタバコを消すと、壁にもたれてずるずると座り込み、膝を抱えて顔を埋めた。


 雑踏は嫌いだ。不特定多数の人間が集まる場所は大嫌いだ。駅も学校も、ショッピングモールも二度と行きたくない。有象無象の集まりが、無秩序に無数の音や声を発し、動き回る様が耐えられない。人の圧のようなものに吐き気を感じる。

 人混みに紛れるくらいなら、独りでいる方がいい。もう、どうでもいい。

 楽しい時間も、幸せな笑顔も、指の隙間から砂の如く零れ落ちてしまった。今はもう、再びすくい上げる気にもなれない。夢も仕事も女も、失ったものが元に戻ることなどあり得ない。代替品を愛したところで、何の意味のない。

 雑踏は嫌いだ。ごちゃまぜになったその他大勢のくせに、一人一人が自分の人生を生きているから。十把一絡げにはできない、生きた人間たちがそこにいるから。かけがえのない家族、友人、恋人をもった人間たちの集まりだから。自分はそこに入れないから。

 雑踏は嫌いだ。

 夜の暗闇の方が心地いい。


 唐突に着信音が鳴り、佐木は顔を上げた。スマホを手に取ると近藤からだった。


「……なんなんですか、こんな深夜に……」

『すまんな。でも起きてたんだろ?』

「まあ、そうですけど」

『俺もさっき帰ったところなんだ。もう寝たいんだが、忘れないうちに連絡しとこうと思ってな』


 疲れきって、かさついた声がぼそぼそと聞こえてくる。このところ、近藤はろくに休むことなく捜査に奔走しているのだ。


「取るべき休息はちゃんと取って下さいよ。効率が下がります」

『ゲームでも仕事でも、熱中し過ぎてすぐ徹夜するヤツに言われたかねえよ』

「まあ、ね」

『で、こないだのご遺体だが、エンバーミングが完了したんで、明日ご遺族にお返しすることになった。で、俺はA大に行くんだが、お前も来るか? ご遺族への話が終わった後に小野田先生が時間を取ってくれるそうだ』

「行きます!」


 否やなどあるはずもなかった。

 感傷的な気分はどこかに飛んで行き、代わりに高揚感が心の大部分を占めた。きゅっと口角を吊り上げて笑う。これから狩りに向かうような気分だった。







 6月1日、遺体発見から4日目の午後だった。

 澄ました顔で、近藤と鳥居の後について法医学教室の建物に入ったはいいが、佐木が立ち入れるのはそこまでだった。エントランスで待てと言われ、長椅子を指さされた。

 しばらくここで待たされるのかと思うと、佐木は少し憂鬱になる。光量の割になんとなく薄暗く感じるのは、単なる気のせいだと分かってはいるが、ここが生者のためではなく、死者のための最後の医療を施す場所だと意識すると陽気な気分にはなれないのだった。

 少しばかり感傷に浸りつつタバコを取り出すと、鳥居が近づいてきた。


「ここは禁煙です」

「いやいや、そこに吸い殻入れが、あれ? なくなってる……」

「禁煙ですから」

「ハイハイ、わかりました。外で吸いますよ」

「携帯吸い殻入れ持ってますか」

「持ってるよ」


 佐木が頭を掻きながら玄関に向かうと、近藤が振り返った。


「あんまり離れるなよ」

「了解」


 佐木は近藤らと別れて外に出るとすぐに火をつけた。以前はあそこで吸えたのにと、肩身の狭い気分だった。


「退屈だな。天雲ちゃんもさぞや退屈してるだろうねぇ」


 今日は鳥居の代わりに別の女性警官が、天雲の警護に付いているらしい。鳥居はこの後また天雲がいるホテルに戻るのだが、彼女と一緒にいるとストレスが溜まってしまうと、道中こぼしていた。後で、昨日彼女と何を話したのか聞いてみたいものだ。

 佐木はスマホで天雲のSNSを確認しはじめた。彼女のことだから止められても、きっとまだ何か投稿しているだろうと思ったら、案の定だった。


『今日は若い男の刑事さんと一緒だよー♡えへ、ちょっと可愛いくて愛美のタイプかもぉ♡』


 お気楽にピースする天雲の背後に、少しピントのボケた警官の横顔が映っていた。

 思わず佐木の眉間に深い皺が入る。何やってるんだ天雲、いやこの警官がなんでこんなこと自由にやらせてるんだ、と怒鳴りたくなった。

 何度も舌打ちしながら投稿を遡ると『警察の人がね、ホテル借りてくれたの。女の刑事さんとしばらく一緒のお部屋で過ごすんだって。でもどうせならスイートルームにして欲しかったなあ、なーんて☆』『隣の部屋にもお巡りさんいるんだって!心強いのだ!』『ここだけの話、愛美を守ってくれるっていう女の刑事さんね、美人だけど怖いんだよぉぉ』などと好きに書いている。

 まさか、刑事の名前やホテルの名前までは書いてないだろうなと不安になり、レスにも一つ一つ目を通したがさすがにそれはなかった。しかし、以前よりも数倍に増えているファンのレスにいちいち返答しているので、いつポロリと漏らしてしまうかと気が気でなかった。

 一刻も早く、SNSを止めさせた方がいい。そして、写真を取られている若い刑事は、この書き込みに気付いていないのかと呆れるのだった。

 まったくと呟いてスマホをポケットにしまった。天雲に手を焼いているという鳥居の気持ちが分かるような気がした。


「同情するよ。あ、いや、鳥居ちゃんも天雲を止められてないからな……。うん、有罪」


 はあと大きくため息をついて、新しいタバコに火をつけた。

 と、隣にスッと人影が現れて、佐木はギョッと後ずさった。


「有罪ってなんですか?」


 どことなく固い顔をした鳥居だった。


「うおぉ、びっくりした。足音全然しなかったぞ。もう終わったのか?」

「はい、今からご遺体を運び出すので……。もう少ししたら先生とお話できます」


 深いため息をついてしゃがみ込んだ。


「ご遺体を見ていると、悔しい気持ちでいっぱいになるんです。なんでこの方がこんな目に遭わなきゃいけないんだって、悔しくて悔しくて悲しくて……」


 佐木は、まだ火をつけただけだったタバコを携帯吸い殻入れにねじ込み、鳥居の隣にしゃがんだ。


「エンバーミングってすごいですね。まるで眠っているみたいでした。あの痛々しい姿のままで家族のもとにお返しするのは、忍びなかったですから……」

「そうだね。ご遺族も少しは慰められたんじゃないかな」

「先日の解剖の時、私、最後まで立ち会えなかったんです。ちゃんと見なきゃいけなかったのに」

「なるほど。やる気はあるけど、気持ち悪くなっちゃったんだね」

「はい。自分が情けないです」

「まあ、慣れるまではよくあることさ。ましてバラバラ死体だし。俺なんか、初めて立ち会ったとき、吐いたよ」

「吐いたんですか? 佐木さんが?」

「うん、吐いた。昼に食ったもん全部出た」

「佐木さんて、嘘つきですね」


 鳥居がじっと佐木の顔を覗き込んできた。

 なぜそんな疑わしそうな顔をするのかと、佐木は首を傾げる。


「あれれ? 俺、嘘はよくつく方だけど、今のは本当なんだけど?」

「昨日、ご遺体の写真をとても嬉しそうに見てませんでしたか?」

「ああ、あれね。だから慣れなんだよ、慣れ。そうそう鳥居ちゃん、これ見て」


 佐木は苦笑してスマホを取り出した。素早く天雲のSNSを開いて見せるのだった。

 その途端、鳥居は悲鳴のような声をあげて立ち上がった。


「やだ! あの子何やってくれてるのよ! しばらくSNSはしないでって言ったのに!」

「彼、天雲ちゃんのタイプだってさ。完全に舐められてるよね」


 ハッハッハと笑うと、鳥居にスマホを突っ返された。

 そして鳥居は警護の警官に電話をかけたのだった。7回コールしてやっと出た警官に、鳥居はカッカしながら今すぐ天雲にSNSの投稿を消去させろと言った。


「はあ? 後でじゃなくて、今よ、今すぐ! え? 松田くん、今どこにいるの? え? ミルクティー? なんでパシらされてんのよ、しっかりして! あなたの仕事は警護でしょう! だめ! 島田さんがいても、あなたも側にいて! すぐ持ち場に戻って! 早く投稿を消去させて!」


 佐木は爆笑しそうになるのを、口を押えて必死でこらえていた。

 どうやら、写り込んでいた松田という警官は買い物を頼まれたようだ。天雲は自由に外出させてもらえないのだから、ちょっとした買い物の代行くらいしてやってもいいだろうが、今回の松田はタイミングが悪かった。

 電話を切り、鳥居はギンと佐木を睨んだ。


「笑い事じゃないんですけど」

「ぐふ、そだね」

「そろそろ行きましょうか。ミーティングルームです」


 唇を尖らせた鳥居はクルリと背を向けた。

 その小さな背中を見て、佐木は落ち込んでいるより、少しカッカしているくらいが彼女らしい気がした。





 明かりの消えた部屋でパソコンのモニターだけが明るく光っていた。ダブルベットの上に置かれたノートパソコンに表示されているのは、鮮やかな極楽鳥花だ。

 淡いピンクの色調の室内には誰もおらず、シャワーの水音だけが静かに聞こえていた。

 しばらくすると水音は途絶え、ドライヤーの風音に変わった。そして、明かりの消えた部屋に音の主がゆっくりと入ってきた。微かにフローラルの香りが漂った。

 ベッドが人の重みでギシリと軋む。カチカチとキーを叩く音が響くと、モニターには黒いゴシックホラー調のページが現れた。


「どーこにいるのかな。ホント余計な事してくれちゃって……。あの子に入れ知恵した誰かさん、後悔するよ。今は嗤ってればいいけど。お前は花にはしてやらない。クソミンチだ」

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