第14話 偶然か否か

 資料を取りに小野田教授が退室したあと、法医学教室のミーティングルームはシンと静まり返っていた。

 佐木と小野田が話している間は口を挟まないという約束を、近藤は出来る限り守ってくれていた。物申したい場面もあったろうが、かなり堪えてくれたのだろうと佐木は思う。


「どうもです、先輩。小野田先生とさしで話す機会を作ってくれて本当にありがとうございます」

「小野田先生に会いたいって言ってたのは、詩織さんのことが聞きたかったからだったんだな」


 近藤はくるりと向きを変え佐木を見つめてそう言った。


「まあ、ね。でも、花師が現れたからこそ、小野田先生の話を聞きたくなったってのもあるんですよ」

「なあ、ザギよ……。仲野の裁判はもう終わったじゃないか。今更、何を掘り返そうっていうんだ」


 近藤は大きく息を吐いた。

 6年半前の通り魔事件の犯人仲野貴俊は、佐木に撃たれはしたが命を失うことはなかった。そして、彼の裁判は今年の初めに結審し、死刑が確定していた。現在は拘置所で刑の執行を待つ身となっている。

 事件当日に3人、後日重体だった1人が死亡した。他に重傷者は9人。当初仲野は薬物使用が疑われたが、実際には少量のアルコールが検出されるにとどまり、精神鑑定も行われたが精神疾患等は認められず、責任能力は有りと判断された。

 仲野が犯行に及んだのは、就職難や貧困、いじめなど様々な要因があったが、直接の原因は初めてできた恋人にふられたからだった。

 突然、人の賑わうショッピングモールで刃物を振り回し、何の面識もない人々を次々と殺傷した仲野の罪の帰結として、死刑判決は当然と世論にも概ね受け入れられた。

 一方、公務執行妨害と殺人未遂の罪に問われた佐木は、事件発生からすぐに現場の状況をつぶさに報告をしていたこと、普段の勤務態度が真面目だったこと、そして婚約者が殺害されたために逆上してしまったこと、結果的に佐木の発砲により仲野を行動不能にできたこと、殺意を口にしながらもとどめを刺さなかったことなどから、情状酌量を認められ、懲役3年の有罪判決に執行猶予5年がつけられた。しかし、当然ではあるが懲戒免職は免れなかった。

 それからの日々を、佐木は無為に過ごしてきた。生きていることに何の意味も感じられず、ただただ死なずにいただけだった。佐木が積極的に死を選ばなかったのは、詩織の死に納得がいかず、知りたいことがあったからだった。


「……先輩。忘れっぽいのは、もはや罪ですよ。いくら温和な俺でも腹立ちます」

「お前は温和の意味を知らんようだな。……詩織さんを殺した真犯人がいる、ってやつか? そうは言ってもなあ」

「あんなもの、偶然だと俺には思えませんから」


 偶然、それは詩織の首に刺さっていた花バサミのことだった。倒れた拍子に、ハサミがあんな風にささるだろうかと、佐木は疑問に思うのだった。落ちていたハサミの刃が肌を切り裂いただけならば、ここまで不審には思わなかったのだが。


「誰かが故意にやったと、お前があんまり言うから、俺だって目撃者を探したんだ。だがそれらしい情報はなかった。その事は、もう何度も説明しただろう?」

「あの場にいた人間はみな仲野に注意を持っていかれてたんです。会話中に耳が雑音をシャットアウトするように、目だって見たいものしか見ないんです。脳に全ての情報がいくとは限りません。だから目撃者自身、目撃者だと自覚してないんです。俺も、何度もそう言いましたよね。…………まあ今更、探し出せるとは思ってませんよ。残念です。完全に先輩の初動ミスです」

「言ってくれるじゃねえか」


 舌を打って近藤は佐木から目を逸らした。

 詩織に対人トラブルはまったく無く、また仕事柄、佐木が恨まれ詩織に矛先が向くことはあり得るが、そういった気配は無かった。だが、本人たちがまったく感知しないところで恨みを買っていた可能性は否定できない。

 ただ、何者かが詩織の命を狙っていたとして、通り魔事件という偶発的な出来事の最中に殺人を実行するなどということがあるだろうか。

 あの事件は予告されたものでは無く、あの日あの時間に仲野が凶行を起こすことは、本人以外に知る由も無い。

 佐木と詩織が買い物に行ったのも、その日の朝に決めたことで、偶然あの場に居合わせてしまったのだ。佐木と詩織が離れたのもたまたまである。佐木の言うように、仲野以外の何者かが詩織を殺したというなら、決して計画的な犯行ではなかったということになる。

 たまたまショッピングモールへ行く佐木と詩織についてゆき、たまたま二人が離れ離れになり、たまたま通り魔事件に遭遇し、たまたま詩織が仲野に刺され、たまたまそれを目撃し、たまたまそこが花屋で、たまたまハサミを見つけ、たまたまどさくさに紛れて刺すことに成功し、たまたま誰にも見られなかった、ということになってしまうのだ。

 そんなことがあり得るだろうか。

 強い殺意を持つ者が、己にも予測しえない偶然に頼った犯行を行うとは、近藤には思えなかった。もっと確実に犯行を実行できる状況を作り上げたり、計画を練るはずなのだ。明確な標的がいるならば、なおさらに。

 詩織を殺した犯人が、仲野の他にいるという佐木の主張は受け入れ難かった。

 結果、捜査陣の総意として、ハサミの件は不幸な偶然が重なった結果だと判断されたのだった。


「すみません。八つ当たりです。拳銃ぶっ放してなけりゃ、自分で調べられたんですからね」

「拳銃!? え? 撃った?」


 それまで、ずっと黙っていた鳥居が声を裏返らせた。

 彼女は、ずっと居たたまれない気分で二人の会話を聞いていた。佐木も近藤も何も説明しようとしない。しかし、隠すわけでもない。小野田を含め、鳥居以外の人間はみな何事かを了解しているようなのに、彼女だけは何のことか分からず蚊帳の外に放り出されたような気分になっていたのだ。

 しかし、佐木が拳銃を撃ったと聞いて、思わず声をあげてしまった。


「あれ? 鳥居ちゃん知らないの? 俺、殺人未遂の前科持ちなんだよ。人撃ったんだ。4発中2発も当ててさ、命中率いいと思わない? ちなみに執行猶予は満了済み」

「あ……」


 鳥居は息を呑んだ。

 近藤が、佐木が警察を辞めたのはある事件に巻き込まれたからだ、やらかしてしまったからだと言っていたのは、この事だったのだ。

 通り魔事件の事はもちろん知っている。当時はまだ大学生になったばかりで将来は警察官になると決めた頃だった。多数の犠牲者が出たことに加え、現職警官が殺人未遂を犯すという衝撃的な事件であったため、鳥居の脳裏に強烈にこびりついていた。

 犯行は凶悪で、一欠けらも同情の余地はなかった。しかし犯人を撃った警官の罪も重いと思った。殺意をもって発砲するなど許されざる行為だ。警察官を志す者としては、到底認めることはできなかった。警官失格と言っていいとさえ思った。

 だが感情は、その警官にひどく同情していた。痛ましくて、胸が潰れる思いをしたものだった。彼もまた、間違いなく被害者の1人だと思ったのだ。

 その警官が、今目の前にいる佐木だった。名前も顔もすっかり記憶の淵に沈んでしまっていたが、それは確かな真実だと感じられた。


「顔写真でちゃったけど、激やせしたからかな、今ではあの発砲警官が俺だってあんまり気付かれないんだよね」


 絶句している鳥居に、佐木は薄暗い顔をしてニヘラと笑いかけるのだった。

 仲野の顔写真ほどには、佐木の写真は報道されなかったが、当時は確かに目にしていたはずだ。どんな写真だったかあまり思い出せないが、こんな優し気な人が犯人を撃ったのかと思った記憶はある。今の姿からは同一人物だと思えないほどに激変したというのは納得できた。

 鳥居は、自分の中で佐木の人物象が急激に書き換わっていくのを感じた。

 彼を始めて見た時、なんて不気味な人なんだと思った。不審人物としか思えなかった。近藤と花師について語り合う様子を見ているうちに、頭が切れることは分かったし、捜査に協力してもらえば強力な助っ人になることも理解した。だがそれでも、何を考えているのか分からない気味の悪さは抜けなかった。

 そして今、過去の事件によって佐木が変わってしまったのだと知り、6年前にも感じたあの痛ましさが胸に迫ってきた。


 近藤が鳥居に向かってスマンと片手を上げた。


「いずれ話そうと思ってたんだが……。ああ、松田とか島田には黙っててくれないか? あいつらには、こいつは体調不良で警察を辞めたってことにしといてくれ」

「え、あ、はい。でも、いいんでしょうか。問題になりませんか?」

「お前が黙っていれば大丈夫だ。ちょっと外からの意見を聞いてるだけってことで通してるからな。ここに連れて来たことも内緒だぞ。これは大事の前の小事だ。いいな」

「はい。いっそのこと私にも、佐木さんの退職理由は体調不良で通して欲しかったですけど……」


 鳥居は憂鬱なため息を吐いた。重すぎる真実を聞かされるより、適当な嘘をついてくれてた方が気楽に接することができたのにと、少々近藤を恨めしく思うのだった。

 佐木はハハハと他人事のように笑っていた。

 もしも自分のことが捜査本部で問題になったなら、それは全て近藤一人の責任だから、鳥居は何も気にしなくていいと笑うのだ。何にも知らなかったと言えばいいと。

 鳥居は、ムッとして佐木を睨んだ。事実を知りたくなかったのは、責任問題うんぬんのことではなく、佐木への今後の接し方が悩ましくて言ったのだ。

 人の気も知らずにふざけた態度をとるのなら気など遣ってやるものかと、鳥居はそっぽを向くのだった。

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