第15話 小野田教授
コンコンとドアがノックされた。
近藤がどうぞと応えると、ゆっくりとドアが開いた。入ってきたのは小野田ではなく、お茶を持って来た白衣の学生だった。
「失礼します。すみません、お出しするのが遅くなってしまって」
青年はペコリと頭を下げた。さきほど退室した小野田に茶を出すように言われたのだろう。
この部屋に通された時に、近藤はしばらく誰も入室させないでくれと小野田に頼んでいた。その為に茶を出そうにも出せなかったわけだから、この青年にはなんの咎もない。それでもきちんと頭を下げるあたり、世渡り上手だなと、佐木は心の中で評する。
茶を順に配ってゆく彼がすぐ横を通ったとき、佐木は微かに爽やかな香りを嗅いだ。茶の匂いではなかった。
「シャンプー、かな? いい匂いだ」
佐木が呟くと、学生はオロオロと自分の手首をクンクンと嗅いだ。
「すみません、香水をつけすぎたかもです。僕、アルコールの匂いとか、臭いのが苦手なので……」
「へえ、香水か。おしゃれだね」
「いえ、友達がくれたんで、ちょっとつけてみただけで」
佐木に軽く頭を下げると、彼はそそくさとドアへ向かっていった。そのまま退出するのかと思ったが、ドアのすぐ横に掛けているカレンダーの前で急に立ち止まった。まだ5月だったカレンダーを6月に替えると、もう一度会釈をしてから、今度こそ退室した。まだ腕や白衣の匂いを嗅いでいた。
「お前、敏感だな。全然気づかなかったぞ」
「結構匂ってたと思いますけど? ねえ、鳥居ちゃん」
鳥居は曖昧にうなずく。確かに学生からはほんのりと香りがしたが、言われてやっと認識できた程度だった。佐木の観察眼は鋭いと思っていたが、それが嗅覚にも及ぶとは少し驚いていた。
そしてまたドアがノックされ、今度こそ小野田が帰ってきた。
「おまたせしました」
席に付くと、資料のファイルをめくり目を通してゆく。俯いて資料を読みながら彼は言った。
「……君の婚約者が亡くなったことは、本当に辛く悲しい事だったと思います。心からお悔やみ申し上げます」
佐木は無言で軽く頭を下げた。
「佐木くん、三枝詩織さんの本当の死因を知りたい、そう言いましたね?」
「はい、言いました」
「私の分かる範囲でお話します」
一呼吸置いて、小野田が淡々と話し始めると、佐木の顔から表情が消えていった。
「腹部に包丁による刺創が2か所、後頸部に花バサミによる刺創が1か所。腹部の刺創の1つは深さ1センチ長さ5センチ、もう一つは深さ3センチ長さ12センチで、突き刺されたというより、切られたといった状況です。大きいほうの刺創では腸を損傷していますが、動脈や他臓器は無事でした。後頸部の刺創は、左斜め後方からハサミの刃が入り、動脈と椎頚に酷い損傷を与えました。この傷が直接の死因だと考えられます」
「確認ですが、仲野が刺した2か所の傷だけだった場合、死亡しなかった可能性はありますか」
「最も致命的だったのは頸部の刺創です。ですから、それが無かった場合、救命の可能性はあったかと思います。しかし、あくまでも可能性です」
「そう、ですか」
佐木は無表情のまま質問を続ける。
「ちなみに、床に物が散乱し、そこに偶然ハサミも落ちていて、偶然刃が開いて偶然上を向いていた所に、偶然詩織が倒れ込んだと、警察は判断しました。先生は、これをどう思われますか」
「佐木くんは、偶然があまりにも重なり過ぎていると思っているんですね。その意見は理解できますよ。しかし、偶発的な事故なのか人為的ものなのか、ご遺体からは判別できませんでした。ですから警察が下した判断に意見を求められても困ってしまうというのが、正直なところです。ただ……」
「ただ?」
「これは私見ですがね……。そんな偶然があるだろうかと、当時の私も疑問に思いました」
「同感です」
「しかし、人為的な傷だと考える場合にも疑問があるのです。躊躇なく一気に刺さなければ、ああはなりません。相当な殺意がなければできませんし、当時の状況下でそんなことができるのだろうかと」
「小野田先生の言う通りです。どちらにせよ、不自然なんです」
「ええ。警察は現場の状況や証言などから、偶発的なものだと判断しましたが、それに反論しようとすれば、確たる根拠がなければなりません。しかし、それを見つけることはできなかった。佐木くん、申し訳ないが君の知りたいことへの答えを、私は持っていないのだよ」
小野田は力なく苦笑し、軽く頭を下げた。
「とんでもない。十分ですよ。仲野が刺した傷だけでは死ななかったかもしれない。それが分かりましたからね。俺には根拠なんて必要ないですし。ありがとうございました」
佐木も頭を下げる。そして、そのまま顔を上げることなく続けた。
「ところで先生。この部屋にあるカレンダーの花の名前知ってますか」
唐突な質問だった。
小野田は不思議そうな顔で、壁のカレンダーを見つめた。先ほど、学生がめくったばかりのカレンダーは、上半分が花の写真になっていた。先ほどまでの5月は赤い薔薇の写真だった。
「えーと、何でしたっけねえ。南国の花ですかな、これは」
「極楽鳥花ですよ」
近藤と鳥居が目を見合わせた。佐木が極楽鳥花の名を口にした途端、部屋の空気はぴりりと張り詰めた。
小野田は、カレンダーの花を見つめていた。
「それが極楽鳥花ですか。花師が予告している花でしたね」
「はい」
オレンジ色の華やかな羽根を持つ鳥のような花だ。とても鮮やかで、エキゾチックな魅力を放っている。この花の名を知らなくても、一度目にすれば記憶に残るに違いない存在感のある花だ。
佐木は俯いたまま、話し続ける。
「最初の花はガーベラでした」
「そうでしたね」
「被害者の髪にガーベラの花が差してありました」
「はい」
「とても綺麗でした」
「それがどうかしたのですか?」
「彼女は詩織に似てるんです。先生は気付きませんでしたか」
佐木のぎょろりとした目が、前髪の隙間から小野田をじっと見ていた。
鳥居が素早く自分のファイルを取り出し、1人目の被害者の発見時の写真を取り出した。そして近藤の前に置く。
「おい、ザキ。これと、どこが似てるんだ」
近藤は眉をしかめ、ゴクリと唾を飲んだ。佐木は何を言おうとしているのかと、嫌な汗をかいていた。
「今、先生に聞いてるんで、先輩は黙って下さい。どうですか、似てませんか?」
「君が何を知りたいのか、さっぱり分からないのだがね。長い黒髪で、背が低い。外見的には似ているかもしれないね」
「他には?」
小野田は少し呆れたよう首を振った。
「もう少し分かりやすく話してもらえないかな?」
「詩織は、花屋で刺されました。花の中で倒れていました。頭の周りに落ちていたのは何の花だったと思います?」
「なるほど。君がそう言うということは、ガーベラだったんですね」
「そうです」
「どうして6年以上も経って、詩織さんの話を聞きにきたのだろうと思いましたが、花師の事件が思い出させたということですか……」
花師の被害者に共通する外見的特徴は、詩織にも当てはまっていた。第1の殺人事件が起きたとき、佐木は通り魔事件を思い出さずにはいられなかった。詩織の死と花師は、何かしらの縁でつながっているような気がしてならなかった。
「第1の被害者と詩織さんが似てるって言ったってお前、ガーベラがあったからってそんな……。それで花師が関係してるなんて、その考えは突飛すぎないか」
近藤は頭を抱えた。
6年前の事件に花師が関係しているかもしれない、という佐木の考えに彼は否定的だった。
確かに詩織はまるで花に埋もれるようにして横たわっていた。花師の被害者たちも、花で飾り立てられている。奇しくも最初の犠牲者は、詩織と同じガーベラだった。小柄で黒いロングヘアの美人という点も同じだ。
第1の事件が起きた時に、佐木が詩織の死の場面を想起したのは無理からぬことだと、近藤は思う。
しかし、両事件は犯行形態と被害者の死因が決定的に違うのだ。
詩織は衆人環視の中で通り魔に刺され、花師の被害者は誘拐後に絞殺され遺体を損壊された上で遺棄された。しかも、詩織の場合は仲野に刺された後に、二次的な要因で死亡したと思われるのだ。
仲野の事件と花師を結び付けるものは無理筋だと思うのだ。仮に故意にハサミを刺した人間がいたとしても、それが花師だというのも強引すぎだ、近藤はそう考える。
「そんなに突飛ですかねえ。……大量の花、ガーベラ、黒いロングヘアに小柄な美人、花で美しく飾られた死体、こんなにも同じキーワードがでてくるのに」
「美しく飾られた死体? 花師の被害者は、確かにそうかもしれんが」
「そうですよ、詩織はきれいだった……花に埋もれて……。まあ、誰かが飾ったというわけではなく、これに関しては正真正銘偶然でしょうが」
佐木は被害者の写真を手にとり、薄っすらと笑った。
「ほら、この子もこんなにきれいだ」
「佐木さん、その発言は不謹慎だと思います。……でも、その6年前の事件と花師の事件、2人の被害者が似ているという意見には同意できます」
「おいおい」
佐木に迎合する鳥居に、近藤は困り顔でため息をつく。
花師の事件と詩織の死を結びつけて考えることは、両事件とも捜査に関わっている近藤にとしては、その違いが大きすぎて頷くことはできなかった。
「佐木くんは、通り魔事件の陰に隠れて、花師が犯罪を犯していたかもしれないと考えているのですか?」
小野田も少し困惑気味だった。眼鏡を何度もなおし、落ち着かない様子だった。
「いえ、そこまではっきりとは言いませんよ。詩織は仲野以外の人間によって殺されたのだと、俺は今日ここで確信しましたけど。2つの事件は相違点が多い。なにしろ、花師は自分の犯罪を人に見せたがる、自己顕示欲の塊のようなやつです。でも、詩織の件は事件化すらしていない。仲野の犯罪に隠されてしまってますから。犯人は誰にも知られずに、闇に葬るように犯罪を犯しているんです。俺が思う花師の人物像とは全く違うんです、困ったことに」
「佐木くんは犯罪者心理から推理を重ねているんでしたね。人物像が違うというのは納得できますよ。私が見た4人のご遺体には、犯人の強い意志、それは殺意とも嗜虐心ともいえますが、悪意が込められていました。詩織さんのご遺体には無かったものです」
「そうでしょうね。事故か事件か分からない微妙なところですから」
「しかし、それでも2つの事件には繋がりがあると思うのですね?」
「ええ。人ってのは常に変化しますしね。まあ、どんなふうに繋がるのかは、これから考えます。楽しみが増えました。小野田先生、今日は貴重なお話をありがとうございました」
佐木が頭を下げると、近藤はこれで話は終わったとばかりに挨拶し急いで帰り支度を始めた。
予定よりも長居していた。この後の予定が詰まっている近藤はしきりに時計を気にしていたが、佐木はのんびりと座ったままだ。小野田も少し話し足りなそうにしている。
「……佐木くん。事件に繋がりがあると考えるなら、なぜ6年半という時間差があるのだろうね。答えが出たら教えてください」
「分かりました。ぜひまた、近いうちに」
小野田が渡してくれた名刺を、佐木は黙って受け取る。
「今日はありがとうございました。これで失礼いたします」
近藤はそう言って、佐木に席を立つように促す。
佐木は肩をすくめて、しぶしぶ立ち上がった。近藤たちには仕事が山ほどあって、天雲のSNSにもすぐに対処しなければならず、急いでいるのは分かってはいるのだが。
「そうだ、小野田先生、今度飲みに行きませんか」
「いいですね、ぜひ」
「ザギ! いい加減にしろ。すみません、先生、こいつに付き合って頂かなくても大丈夫なんで」
怒鳴ったり愛想笑いしたり、忙しい男だなと佐木は白けた顔で近藤を見るのだった。が、小野田の思わぬ反応に気付き、佐木の注意はすぐにそちらに向いた。
いえいえいいんですよと、笑う小野田を予想していたのに、彼はひどく真面目な顔で佐木を見つめていたのだった。
「……あ、ああ、濁点を付けてザギ、なんですね。ではザギくん、また」
そう言った時には、小野田は先ほどまでと同じ愛想の良い笑顔を浮かべていた。
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