第13話 佐木の罪と悔恨

 6年と約半年前の12月、その事件は起きた。


 クリスマスムードに華やぐ駅前のショッピングモールは、いつもの週末よりも人出が多かった。楽しげな家族連れや、カップル、学生などの買い物客で賑わっていた。

 その日非番だった佐木は、三枝詩織と2人で買い物に来ていた。先日、佐木が買ったペアのマグカップに合う食器を一緒に買いに行こうと、詩織が誘ったのだ。


「そんなもん、お前の好きなのを好きなだけ買えばいいのに……」

「違う! そこじゃない! 食器は重いの!」

「はぁ、荷物持ちか」

「涼介も使うことになるんだから、文句言わないでよね」

「はいはい、いくらでも持ちますよ。なんなら詩織ごと持ち上げちゃおうか? お前チビだから片手で余裕」

「もう、バカ」


 三枝詩織は、佐木の婚約者だった。翌週の日曜日には結婚式を控えていた。

 詩織は佐木の警察学校時代の同期生で、同じ志を持つ者同士で気が合い、4年の交際期間を経て2人は結婚を決めた。

 ただ、詩織は警官にはならなかった。警察学校での訓練の最中に左目を負傷し、視力が大幅に下がってしまったためだった。


「花瓶も買いたいな。お洒落なやつ」

「それなら、この先に花屋があったぞ。花瓶も色々置いてたと思う」

「じゃ、そこ行ってみよう」

「あ、俺トイレ。先に行って見といて。すぐに行くから」

「えー、どこにあるか分かんないよ。私、目悪いし……。待ってるから一緒に行こうよ」

「すぐそこだって。お前、選ぶのめちゃくちゃ時間かかるんだから先にじっくり見とけって。俺はなんでもいいから。ほら、案内図」


 佐木は館内案内の看板を指差した。今、ここにいるからすぐ近くだと説明する。トイレの方が遠いくらいだった。


「なるほどなるほど、確かに近そうですな」


 看板を凝視していた詩織は、いってきますと言って歩きだした。が、佐木は詩織の肩を掴んで引き戻す。


「反対、どんだけ地図読めねぇんだよ」

「お、おおぉぉ。さすがはお巡りさん、頼りになりますねえ」


 詩織は、エヘヘと笑った。お前が頼りなさすぎなんだと、佐木も笑った。長い黒髪を揺らして軽やかに歩いてゆく小柄な後姿を少し見送ってから、佐木は反対方向へと歩いていった。

 日常の一コマ。買い物中のごく平凡な出来事。まさか、これが最後の会話になるとは思いもしなかった。


 佐木がトイレから出てくると、館内が騒然としていた。叫び声を上げて逃げる人々の姿に、佐木の顔が歪み鼓動が倍速になった。火事かと周囲を見回す。しかし火の手どころか煙の匂いもないので、ここからは遠いのだろうかと訝しむ。

 しかし、こちらに走ってきた男を呼びとめて話を聞くと、思わぬ返事があった。刃物を持った男が次々に人を刺しているというのだ。男が指さした方向からは、さらに人が逃げてくる。バクンと心臓が跳ねた。それは詩織が向かった花屋の方向だった。

 佐木はすぐさま現状を署に連絡した。まだ暴漢の姿は確認していなかったが、腕から血を流しながら逃げてくる女性、悲鳴や怒号を聞けば、すぐ近くで惨事が起きているのは明らかだった。


「すぐに警官を寄越して下さい! 怪我人もいます。救急車の出動を!」


 目に映る光景を、電話の向こうにつぶさに伝える。

 非番とはいえ現職警官である佐木は、自分が何とかしなければならないと、人垣をかき分けて暴漢がいるほうへと向かう。逃げまどう人々に落ち着いて避難するよう呼びかけながら。

 佐木は奇声に向かって走る。走りながら詩織を探した。目の悪い彼女が、この混乱の中で避難できているか心配だった。早く彼女を見つけなければと、気が焦っていた。

 駅前には交番がある。近くの警察署からも車を飛ばせば十数分で到着するのではないかと思う。一刻も早く来てくれと願うばかりだった。

 今の佐木は丸腰だ。刃物を振り回す輩を、一人で制圧するのは難しい。いや、不可能だ。武器を捨てるように、説得できるだろうか。

 突然人垣が切れ、視界が開けた。


「うあらぁぁぁぁ! 死ねぇ! てめえら全員死ねやぁ! ぶっ殺す!」


 血に染まった包丁を振り上げる男が見えた。ショッピングモールの広い通路の真ん中で、フラフラとおぼつかない足取りで、悲鳴をあげて逃げる人々を追いかけていた。こんな状況でも遠巻きに見ている野次馬の存在が信じられなかった。

 暴漢は若い男だった。短髪で中肉中背、黒のパーカーにジーンズ、そして背中に黒のリュック。20代の前半に見えた。両手に包丁持っている。誰へともなしに叫び続け、刃物を振り回す様子は、薬物中毒を思わせた。

 佐木は思わず舌を打つ。相手はひどい興奮状態にあり、下手に近づけば自分も刺されるのがおちだと思った。大人しく警官たちがくるのを待つしかないかと歯噛みするのだった。せめてもの思いで、繋いだままだった電話で、犯人の状況を伝える。

 男はこちらに背を向けて、よろけながら次の獲物へと走りだした。いつくもの悲鳴、逃げだす無数の足音、そして男の怒号が錯綜する。焦燥にかられながら佐木はその後を追った。


 その時だった。視界の隅に、床に散乱した花が映った。詩織に教えた花屋のすぐ近くにまで来ていたことに、この時気付いた。片方だけのパンプスが落ちている。ベージュのシンプルなそれは、詩織のお気に入りだった。

 佐木の背筋を冷たいものが流れ落ちていった。唇を震わせながら、ふらふらと近づいていく。散らばった花の中に倒れているのは、マネキンだと思いたかった。


「詩織……?」


 足が思うように動かない。しかし、止まることもできなかった。視線を捕えて離さないそれに向かって、佐木は壊れたおもちゃのように歩いていく。

 詩織と笑い合ったのは、つい数分前のことではないか。なぜ、こんなところに彼女は寝転がっているのか。一体何のジョークだ。

 色とりどりの花が入っていたバケツがいくつも倒れ、床は水浸しだ。その水は赤に染まっていた。詩織の腹も真っ赤だった。

 その瞬間、佐木は走りだしていた。


「詩織、詩織!!」


 彼女はぼんやりと目を開いていた。しかし、身動き一つしない。赤い血だまりの上に無数の花が浮かんでいた。オレンジとピンクのガーベラがまるで髪飾りのようで、青ざめた彼女の口元に落ちた花びらは赤い口紅にみえた。花の中に横たわる詩織は美しかった。ゾッとするほど綺麗だった。現実離れしたその光景はまるで絵画のようだった。

 佐木の手からするりと電話が落ちる。

 詩織の側に膝をつき、恐る恐るその手をとった。脈をみる。胸に耳を当て音を聞く。しかし、佐木が心から切望する反応は無かった。

 恐怖に心臓が締め上げられる。何度も細かく首を横に振り、詩織を抱き上げた。


「詩織……詩織……しっかりしろ、すぐ、病院に連れて行って、やるから、な、大丈夫だから。大丈夫、だから……」


 息が苦してたまらなかった。浅い呼吸ばかりで、空気が肺まで入ってこない。今にも全身から力が抜けていきそうだった。

 詩織を強く抱きしめようとして、腕を回すと硬いものが当たった。首の後ろのあたりだ。

 もう、本当に息が止まりそうだった。

 佐木は恐る恐る詩織を抱き起こし、首の後ろを確認した。ハサミが突き刺さっていた。


「止め、ろよ……冗談は……なんなんだ……意味、分かんねえ」


 持ち手の部分が大きく、刃の部分は普通のハサミと比べてかなり短い、花を切るための専用のハサミだった。それが開いた状態で、詩織の首に刺さっていたのだ。

 周囲には割れた花瓶や、ラッピング用のリボンや色紙が散らばっている。何本ものペンやカードも。店内はぐちゃぐちゃだった。

 あの男に襲われて、詩織は逃げ惑い、腹を刺され、倒れたはずみでハサミが刺さったというのだろうか。


「嘘だろ……そんな……詩織、詩織」


 詩織の目はがらんどうで、佐木が愛した人はもうそこにはいなかった。


――どうしてこんなことになった。なぜ詩織が刺された。アイツは誰だ。なぜ詩織を刺した。いや、誰でも良かったんだ。狙いを定めている感じじゃない。詩織が刺された。やめてくれ。嫌だ、嫌だ。アイツはなんでこんなことを。離れなければ良かった。待ってるから一緒に行こうと言ったのに、俺が先に行かせてしまった。詩織が刺された。なんでだ。真っ赤だ。血がいっぱいだ。ギャーギャーわめきやがってうるせえんだよ。気違いが。一人にしなきゃよかった。どうして今日ここでこんなことに。詩織、返事をしてくれ。頭が痛い。割れそうだ。早く詩織を病院に連れていかなきゃ。血が出過ぎている。真っ赤だ。嫌だ、やめてくれ。なんでハサミが。ふざけるな。詩織を助けなきゃ。真っ赤だ。血の海だ。息をしていない。俺のせいだ。動かない。詩織。詩織。詩織。助けなきゃ。助けなきゃ。詩織が刺された。アイツに刺された。アイツに。


「うおああ! ああああ?! 次はどいつだぁぁ! ブッ刺してブッ刺してぶっ殺してやんよぉぉ!!」


 男のがなり立てる声。耳障りで神経に爪を立てるような不快な声。

 佐木の身体がガタガタと震えていた。


――てめえが死ねや。


 佐木の中で何かが崩れ落ちたような気がした。目に映るものすべてが、血の色に染まって見えた。


「警察だ! 手に持っているものを捨てなさい! 撃つぞ!」


 その声に反応して、佐木は顔を上げた。

 制服を着た警官が2名、拳銃を構えている。交番勤務の警官のようだ。やっと来たかと思う。佐木はそっと詩織を横たえ、ゆらりと立ち上がると彼らに近づいていった。

 警官が拳銃を向けている先には、相変わらずフラフラと身体を揺らしている男がニタリと笑っていた。


「んなもん怖かねえんだよ! どうせ撃てやしねえんだ! ただの脅しだろ? 日本の警察は撃っちゃいけねぇんだもんなぁ!」


 男は包丁を振り上げる。その2、3メートル先では、足をくじいたか腰が抜けたか、年配の女性が這って逃げようとしていた。


「俺はもうどうせ死刑なんだよ! いっぱい道連れにしてやんよお!」

「助け……助けて」

「次はおめえだぁ!」


 男はヒャッヒャと笑いながら近づいてゆく。

 大柄な方の警官が叫ぶ。震え、上ずった声だった。


「動くな! その人から、離れろ! 撃つぞ!」

「撃て」


 警官に近づき佐木が言った。


「今すぐ撃て! 野崎!」


 驚いた警官がチラリと佐木を見た。完全に目が泳いでいた。


「ザギさん……?」

「撃てっつってんだろうがぁ! 目ぇ逸らすな!」


 佐木が怒鳴る。

 逃げる女性に男が更に近づく。

 野崎は震える手で銃を構えたまま、動けなかった。


「うらああぁ! 死ねや、ババア!」

「撃てぇぇ!!」


 パンッ!


 野崎ではなく、もう一人の警官が発砲していた。同時に女性の悲鳴が響き渡った。耳をえぐられるような、聞くに堪えない無残な悲鳴だった。弾丸は男に当たってはいなかった。

 次の瞬間、佐木は野崎を殴った。そして、彼の拳銃を奪っていた。何をするんだとたじろぐもう一人の警官に痛烈な蹴りを入れて、佐木は男に向かって走りだした。

 男の刃物が女性の背に突き刺さっていた。

 銃声に驚き動きを止めていた男だったが、走って来る佐木に気付くと威嚇を始めた。


「な、なんだよおめえ!」


 佐木の返答は、銃声だった。続けざまに2発。男はギャッと呻いて膝をついた。1発が肩をかすっていた。

 佐木はさらに男に近づく。外しようのない距離にまでつめ、情けない声をあげて尻をついたまま這いずって逃げる男に、また撃ちこんだ。

 さっきよりも大きな悲鳴が上がる。男が押さえた腹から血があふれていた。

 無言のまま、佐木は引き金を引く。次は太ももから血が噴き出した。


「うわああああ、待って、待ってくれ、こ、ころ、殺さないで、殺さないでくれ」


 佐木が、無様に涙を流す男から銃口をはずすことはなかった。拳銃には最後の一発が残っている。


「……このクソムシが……。脳みそぶちまけて死ねや」

「す、すんません、すんません」


 詩織の命を奪った男は、下らない小悪党だった。だらしなく小便の悪臭をまき散らし、さっきまでの暴虐から手のひらを返して命乞いをする。虫唾が走るほど、下らない。どうせ死刑だと叫んだ割に、どうしょうもなく生き汚い。


――死ねよクズ野郎殺してやるぶっ殺すぶっ殺すぶっ殺す!


 佐木が両手で構える拳銃は、正確に男の頭を狙っていた。

 パンッ。

 乾いた音とともに、男の眉間に穴があき、頭部全体がぶるると震えた。まさか本当に撃つなんて、とでも言いたげな顔で男の動きが止まった。

 そして、額にあいた穴から血が噴き出し、その顔に赤い筋をいくつも描いていった。後頭部から流れ出した血が男の髪の間から這い出した。

 パンッ。

 佐木はまた引き金をひく。

 2つ目の穴があく。

 パンッ。

 引き金を引く。

 男の頭が弾ける。

 パンッ。

 パンッ。

 佐木は引き金を引く。

 引き金を引く。

 引き金を、引く。

 パンッ!


「止めろぉっ!!」


 野崎の声に我に返る。ブルブルと震える手から拳銃が落ちた。

 太い腕に羽交い絞めにされ、佐木は抑え込まれた。引き倒され、ガンと堅い床に頭を打ちつけたが、懸命に首をひねって憎い相手を睨む。


「た、たすけ、助けてくれ……」


 男は、泣きながらうめいていた。その額に銃弾の跡はなかった。

 佐木は目を剝いて言葉にならない咆哮を上げた。落とした拳銃に手を伸ばすが、もう一人の警官に腕をねじ上げられた。


「うああああ! 離せ! 殺してやる! ぶっ殺してやる!!」

「ザギさんっ! もう止めるんだ!」


 全身の力を振り絞って抵抗したが、彼よりも体格のいい野崎からは逃れられなかった。

 佐木は、最後の引き金を引くことができなかった。何度も何度もとどめの1発を撃ったはずだったのに。

 至近で男の眉間を狙った時、佐木の腕と指はまともに拳銃を握れない程に震えていただけだった。


「ぶっ殺す! 離せ! そいつを殺させろぉ!! 殺すんだ! そいつを殺すんだぁ!!」


 到着したばかりの大勢の警官に取り囲まれた。佐木は3人がかりで押さえつけられ、手錠をかけられた。

 血まみれの男の元には救急隊員が走り、暴れる佐木は警官たちに拘束されパトカーに押し込まれた。


「殺してやる! 絶対に殺してやる!!」


 佐木は狂ったように叫び続けた。

 遠巻きにする人々の中には、無差別殺人の犯人と錯誤する者もいたほどだった。

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