エピローグ 私はその人を常に先生と呼んでいた.だから此処でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。

僕が先生と知り合いになったのは鎌倉である。


僕は学生だったが、友達に誘われて、海水浴に出掛けたのだ。ところが友達はすぐに国元へ呼び戻されてしまったので、僕は一人で海水浴なんかをしながら毎日を過ごすことになった。

僕が先生を見かけたのは、そんな時である。西洋人を連れていたので、眼をひいたのだ。そうしているうちに、知り合いになった。先生は僕を見ると

「何処かでお会いしたことがあるだろうか?」

と尋ねた。何処かで君を見たことがあるが、思い出せないと言うのだ。

「人違いじゃあないですか。」

と僕が言うと、先生はそれでも不思議そうな顔をして僕を見ていた。


東京に帰ってからも、先生のお宅にお邪魔する約束をしていた。

僕が家を訪ねた時、先生は留守で、奥さんが出てきた。着物の似合う美しい奥さんだった。

先生は墓参りに出掛けていた。毎月、その日になると学生時代の友人の墓に出かけているらしい。


付き合えば付き合うほど、不思議な人だった。


先生と奥さんとは仲の良い夫婦に思えた。よく、”おい静”と呼んでいる。聞けば、結婚をするときに今までの名から”静子"という名に換えたらしい。奥さんによく合っていた。先生のお宅はいつも静かだった。


先生は帝大を卒業しているらしいが、何もせずに、遊んで暮らしていた。好きな学問をやって暮らしているようだ。僕には不思議で、興味をもったのだ。


冬休みになるころ、僕は実家に一時帰ることになり、先生に挨拶に行った。

「どなたか、具合でも悪いのですか?」

「いえ、直ぐに帰れるのが僕しかいないので、、兄は佐世保の海軍の造船所の技師でなかなか帰れませんし、妹はイギリスに嫁に行っていますので、、、」

「ほう、、そうですか。君の家に財があるなら、親御さんが元気なうちにきちんとしておきなさい。」

「いえ、財というほどのものは、、、僕の家は塩釜の田舎ですから。」

「田舎だから、周りの人がみんないい人だとは限らないでしょう。人間はいざという間際に悪人になるんです。」

「どういう意味ですか?」

「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ!」

「・・・・」

「私は昔、親戚の者に欺かれたのです。私は決してそれを忘れない!私は彼らを憎むばかりじゃない、人間というものを憎む。」

「・・・・・」


*****


僕は言葉が出なかった。先生に興味を持ったのは僕が生きてきた中で会ったことのない種類の人間だったからかもしれない。


僕の両親は、父は小児科の医者で医学校で教鞭も取っている。休みの日は教会で奉仕活動をし、医薬品を貧しい人たちに提供しているので、彼の稼ぎはきっとすべてに近く使われているようだ。


母は大学の英語教員のイギリス人宅で、ハウスキーパーをしながら、僕らを育ててくれた。実際、一つの大きな家族のように暮らしていたので、そのご夫婦の子供たちとも兄弟のように育った。それが、退任されるまで続いた。


妹は女学校を中退して、幼馴染のところに押しかけ女房で行ってしまった。イギリスだよ?誰に似たんだろう。父も母も笑うだけで、反対もしなかった。


父は基本的には無口な人だが、よく、母親とは英語で会話をしていた。英語だと雄弁だから、と、母は笑っていた。この二人はよく並んで散歩したり、家事を分担したりして、、、それが当たり前だと思っていた僕は、、、三歩下って付いていくような、いかにも日本女性のような先生の奥様になかなかの衝撃を受けた。まあ、これが普通なのかもしれないが、、、


僕の母は散切り頭で、いつも洋装。ミシンが大好きで、イギリス人一家に譲ってもらったミシンを、きっと今日も踏んでいるだろう。まあ、そんなわけで、僕の家は、そんなにお金持ちでもなかった。


先生ほど、心配する財産がないのは、ある意味幸せかもしれない。いや、財産があって、好きな勉強を仕事もせずに一生できるのも、それはそれで羨ましくもある。


僕は久しぶりに家に帰ると、新しい知り合いについて、母に報告した。

「ふーん、、、、あらあら、じゃあ魚の干物でもお土産に持っていく?」

干物かあ、、、

「ついでに、珠子おばさまのところにも持って行ってね!彼女、塩釜の魚の干物大好物なのよ!」



*****



年末年始を実家で過ごして、干物をたくさん持たされて、僕は東京に戻った。

珠子おばさまに干物を持って行って、年始の挨拶をして、、、お年玉を頂いた。


先生のお宅にも干物を持って行った。この家は、いつ来ても静かだ。

お茶を頂いて、お暇するときになって、僕は母から持たされたもう一つの荷物を思い出して、カバンから引っ張り出した。


「そうそう、母から、預かってきました。先生へ、って。」

「うん?」

と先生は包んであった小さな風呂敷をそっと外した。

中には、年季の入った茶封筒と、新しい封筒が二つ重なっていた。


「・・・・・こ、さかの、、、下宿代?・・・」


先生は新しいほうの封筒に書かれた文章を読んでいるらしかった。何だろう?


「・・・・瀬田君、、、きみは、、、恋をしたことがありますか?」


唐突に、先生が言った。


「いいえ。」

「恋をしたくはありませんか?」

「・・・・・」

「・・・恋は、、、罪悪ですよ、、、解っていますか?」


先生はそう言うと、気がふれたように笑いだした。奥から先生の奥様がびっくりして駆けつけるほど、甲高い、恐ろしいほどの笑い声だった。





*****

おしまい


参考文献  角川文庫 夏目漱石 こころ

      大谷大学 きょうのことば








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あの文豪小説に入ってしまいました! こころ編 風子 @kazeko

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