マキオの家

尾八原ジュージ

マキオの家

 夏という単語を目にすると、僕は未だに従弟のマキオの顔を思い浮かべてしまう。昔から住んでいた貸家の居間の、摺りガラスを嵌めた窓を叩く小さな手と、その横にぼんやりと見える白い顔が瞼の裏に蘇ってくる。

「あつにい、ボクんち開けて……」

 か細い声と、マキオの家の鍵がついたカメのキーホルダー、窓から流れ込む蝉の声、汚れた床の上に座ってニコニコしていたマキオを思い出す。

 夏にはほかにもたくさんの思い出があったはずなのに。そもそも僕はとっくに大人になって、あの寂れた町から遠く離れて暮らしているのに。それでも一番最初に思い出すのはまだ平成が一桁だったあの年の、マキオのことなのだ。


 父がカメの形のキーホルダーを家に持ってきたのは、夏休みが始まる前日のことだった。居間でマンガを読んでいた僕がふと顔を上げると、視線の先に見覚えのあるキーホルダーがあった。

「それ、マキオん家のじゃない? どうしたの?」

 振り返った父の顔には一瞬、まずいものを見られた、という表情が浮かんだように見えた。だけどすぐに、いつもののんびりとし顔に戻って、

「マキオん家はちょっと留守にするから、預かってきたんだよ」

 と言った。

「ふーん」

 マキオは僕の父方の従弟で、当時まだ保育園に通っていた。マキオの母親がうちの父の妹、つまり僕の叔母なのだ。おおらかな父に似ず、神経質そうな印象の人だった。

 マキオの父親は何年か前に、自らの飲酒運転が原因の交通事故で亡くなっていた。叔母は慰謝料などの支払いに苦労していたらしいと聞く。神経質そうな印象は生活苦のせいだったのかもしれない。叔母は仕事で忙しく、不在が長引くときなど、マキオはよく僕の家にご飯を食べに来たり、時には泊まったりした。

 そんな間柄だったから、何かのときに家の管理を任されるというのもありそうな話ではあった。父はカメのキーホルダーを、電話台の一番上の引き出しにしまった。

 その次の日は平日だった。父も母も仕事でおらず、中学生の姉も部活のために登校していた。正午過ぎに母が帰ってくるまで、僕は家にひとりだった。唯一エアコンがある居間で宿題をやっていたが、しばらくすると飽きて放り出し、テレビを点けた。

 どのチャンネルも、小学生には退屈なワイドショーや通販番組を流していた。ザッピングしながら生あくびをしていると、窓の方からコンコン、と音がした。

 居間の掃き出し窓、磨りガラスの向こう側に手が見えた。突然だったのでぎょっとしたが、「あつ兄」と声がしたので、僕はほっと胸をなでおろした。それは聞きなれたマキオの声だったのだ。

「マキオかぁ。どうした?」

「あつ兄、ボクんち開けて……」

 そう言われて、僕はマキオの家の鍵が、我が家にあったことを思い出した。電話台の引き出しからカメのキーホルダーを取ると、僕はサンダルをつっかけて外に出た。玄関を開けた途端、むわっとした熱い空気が押し寄せてきた。

 マキオはいつのまにか玄関のすぐ横にやってきていた。ヨレヨレのTシャツを着て、大きめの半ズボンから細い足が突き出していた。いつもと変わらないマキオに見えた。

「マキオんちの鍵、これだろ? 一緒に行って開けてやるよ」

「うん!」

 マキオは嬉しそうにうなずいた。末っ子の僕は、マキオに頼られると弟ができたみたいで楽しかった。彼の住む団地まで、僕たちは十分ほど並んで歩いた。

「マキオ、ずっと留守にするんじゃなかったの?」

「ちょっと帰ってきた」

「ふーん。普段どこにいんの?」

「甲府のじいちゃんとこ」

 マキオは少し遠方に住む祖父の名前を挙げた。彼ひとりでどうやってこっちまで戻ってきたのか、そのときの僕はなぜか少しも不審に思わなかった。

 同じ建物がずらりと建ち並ぶ団地の一角、D棟の101号室がマキオの家だった。カメの鍵で扉を開けてやると、マキオは「わぁい」と嬉しそうな声を上げて中に入った。

 閉め切られていた部屋の中は、外とはまたひと味違う暑さだった。おまけに厭な臭いがした。部屋のどこかで何かが腐っているような臭いだった。僕は入ってすぐ台所の窓を開けた。近くの児童公園からだろう、蝉の大合唱がわっと流れ込んできた。

 マキオは一番奥の六畳間に駆け込んだ。そこは和室のはずだったが、なぜか畳が全部取り払われており、床板がむき出しになっていた。床の真ん中あたりが特にひどく汚れて黒ずんでいたが、マキオはあえてその辺りに行くと、ペタッと座り込んでしまった。

 僕は正直、床の汚れた部屋にあまりいたくないなと思った。でもマキオは嬉しそうにニコニコしていたので、しかたなく僕もその部屋に落ち着くことにした。

 僕たちはしばらくそこで、なにか話をしていたと思う。部屋にあった絵本をマキオに読んでやったような気もするが、正直よく覚えていない。気がつくと正午の放送が鳴っていた。

「あっ、オレ帰らなきゃ」

「じゃあボクも」

 僕たちは戸締まりを済ませて家を出た。マキオも僕の家でお昼を食べていくのかと思ったが、彼は玄関の前までくると、「じゃああつ兄、またね」と言って手を振り、駅の方へと走っていってしまった。


 父と母も、たびたびマキオの家の鍵を持ち出していた。ふたりとも、マキオの家の片付けをしているのだと言った。

 なるほど、マキオが「ボクんち開けて」と来るたびに、マキオの家はだんだん物が減り、殺風景になっていった。台所の隅に積まれていたゴミ袋がなくなり、食器棚の中身が段ボール箱に移された。引っ越すの? と尋ねたが、マキオはニコニコ笑っているだけだった。

「おばちゃんは? マキオのお母さんは一緒にこっちに来ないの?」

「うん。ママ、具合が悪いから……」

 きっと叔母さんの代わりに、マキオがひとりで家の様子を見に来ているのだろう。そう早合点した僕はすっかり感心してしまったし、マキオの役に立ってやらなければならないと思った。僕の本棚にあった絵本を持っていったり、冷凍庫で凍らせておいたチューペットを、マキオの家で一緒に食べたりした。

 マキオは「ママはずっと甲府にいる」と言っていたが、僕は叔母も時々は団地に戻っているのだろうと思った。僕がマキオと一緒に畳のない六畳間で遊んでいると、たまに人の気配を感じるのだ。

 廊下から床板を踏むミシッという音がしたり、水切りカゴの中身が突然ガタンと動いたりした。開け放った襖の向こうから、長い髪を垂らした女性の顔がちらっと覗いたこともあった。

 きっと叔母は病気で、人前に出たくないのだろうと思った。ずっと横になっていて、お化粧などもしていないに違いない。それでも僕とマキオが遊んでいると、様子が気になってこっそり見に来るのだろう。叔母のことが正直苦手だったこともあって、僕はあえて声をかけなかった。

 マキオの家はだんだん空っぽになっていった。キッチンにあった水切りカゴも、戦隊ものの絵本も、いつの間にかなくなってしまった。それでもマキオは、平日はほぼ毎日のように「ボクんち開けて」とうちを訪れ、六畳間の汚れた床に座ってニコニコしていた。なぜか休日には姿を見せなかったが、きっとじいちゃんの休みに合わせて甲府で過ごしているのだろうと思った。

 暑い日が続いていた。マキオの家にエアコンがなかったせいでそう思うのかもしれないが、やっぱりあの年の夏は特別に暑かったような気がする。まるで熱気が肌に染み込むような夏だった。


 僕はあえてマキオのことを内緒にしていたわけではなかったが、両親にも姉にも何となく言いそびれていた。それをぽつりと口に出したのは、引越屋のCMがきっかけだった。

 ある夜、家族皆でテレビを見ていたら、大手引越業者の新しいCMが流れた。それがなかなか可笑しかったので皆でひとしきり笑ったあと、僕はふとマキオのことを思い出してこう言ったのだ。

「そういえばマキオんちも引っ越すんだよね?」

 そのときの両親の顔を、僕はまだ覚えている。見ているこっちがぎょっとするような顔だった。「今まで仲良く喋っていた人が、まったく知らない赤の他人だったことに突然気づいた」みたいな表情だと思った。どうしてこんな顔をされたんだろう? もしかして僕がマキオんちの鍵を持ち出したのはいけないことだったのかな? でもマキオが開けてって言ったんだし……とグルグル考え事をしていたら、母が僕に「なんで?」と問いかけた。お面のような笑顔を浮かべていた。

「なんでって……マキオんち、もう何にもないじゃん。どこかに引っ越すからじゃないの?」

あつし、なんでマキオくんちに何にもないって知ってるの?」

「だって、マキオがボクんち開けてって言うから。そこのカメの鍵持って一緒に」

「マキオが?」

 今度は父が素っ頓狂声をあげた。「マキオくんが言ったのか? うちに来て?」

「うん」

「篤! 変なこと言わないで。言っていい冗談と悪い冗談があるよ」

 母の顔は、今度は明らかに怒っていた。声にも強い怒気を孕んでいた。こんなに怒った母さんは初めて見た、と僕は驚いた。

「母さん、ちょっと落ち着いて」と父が母の肩を叩いた。「篤。マキオくんが開けてって来たの、いつだ?」

 僕は夏休みの間、何度もマキオの家に行ったことを説明した。父も母も、普段は僕の話にすぐ茶々を入れる姉さえも、じっと黙って聞いていた。話が終わると、両親は少し血の気の引いた顔を互いに見合わせた。

「……どう思う?」

 母が言った。「篤、こんな嘘つく子じゃなかったと思うけど」

「嘘じゃないよ!」僕は腹を立てて言い返した。さっきから皆が自分の話を疑うので、いい加減頭に来ていた。だけど次に母が言った言葉は、僕の話より何倍も嘘みたいだった。

「あのね、篤には言ってなかったけど……マキオくんと叔母さん、夏休みの前に亡くなったの。もうお葬式も終わったのよ」

 僕は馬鹿みたいにぽかんと口を開けていた。悪い夢を見ているような気分だった。

「嘘でしょ。だってマキオ、夏休みの間に何度も来たよ」

「そんなはずないでしょ」

「来たよ! 本当に来たんだ!」

 怒鳴りながら自分の顔が熱くなっているのを感じた。窓を叩くマキオの手。ふたりで歩いた団地への道のり。閉め切ったマキオの家の空気の熱さ。畳のない部屋に響く蝉の合唱。溶けかけのチューペット。あれらがすべて嘘であるはずがなかった。

 喚いていると、両肩をポンと叩かれた。父が僕の真正面に立っていた。

「篤、マキオくんが来るのって、平日の午前中だよな?」

 僕は口を閉じ、黙ってうなずいた。


 次の日は平日だった。だけど父も母も、姉も僕と一緒に家にいた。まだ八時前から居間に集合し、掃き出し窓をじっと見つめた。

 じりじりと時間が過ぎていった。九時になり、十時になり、そして何事もないまま十一時になろうとしていた。マキオがやってくるのは、たいてい十一時より前だった。今日はもう来ないかもしれない、と思った。

 その時だった。

 掃き出し窓の向こうに、小さな握りこぶしが見えた。それはトントンと、この夏すっかり聞きなれた音で窓を叩いた。

「きたっ」と僕が呟くと、座っていた皆が中腰になった。

「あつ兄、ボクんち開けて……」

 マキオの声がした。僕はそれに答える前に家族の方を振り向き、「聞こえた?」と尋ねた。きっと僕の顔には満面の笑みが浮かんでいただろうと思う。

 だが、反応は期待外れなものだった。父も母も姉も、眉をしかめて首を捻るだけなのだ。

「聞こえたって、何が?」

 姉が不思議そうな声で言った。

 背中が急に冷たくなった。僕には聞こえたマキオの声が、皆には聞こえないのだ。その時もう一度窓を叩く音と、マキオの声がした。すりガラス越しに顔がぼんやりと見える。指さしたが、それも皆には見えないらしかった。

「嘘だ、いるんだよ、マキオ……ボクんち開けてって言ってる」

 僕は立ち上がった。「ねぇ、鍵持ってっていいでしょ? マキオんち開けてやらなきゃ。だって、甲府のじいちゃん家からわざわざ来たんだよ」

 また窓を叩く音がした。マキオが待ってる。早く行かなくちゃ。そのとき母が、僕の前につかつかと歩いてきた。物凄い勢いで、とっさに怒られる、と思った。だけど母は僕の前に座ると、僕をぎゅっと抱き寄せたのだ。触れ合った頬が濡れた。母は子供のようにボロボロと涙をこぼしていた。僕は「大人もこんな泣き方するんだ」と、どこか他人事のように思った。

「もうマキオくんちじゃないの」

 母は泣きながらそう言った。まるで僕ではなく、僕の後ろの掃き出し窓に向かって話しているようだった。

「あの家はもうマキオくんちじゃなくなるの! 違う人の家になるの!」

 窓を叩く音はもうしなかった。

 振り向くと、掃き出し窓の向こうにはもう、マキオの姿は見えなかった。母は僕を抱きしめたまま泣いた。父は悔しそうな顔で拳を握りしめていた。姉は顔を覆って肩を震わせていた。

 それからはもう、マキオがうちにやってくることはなかった。


 あのやけに暑かった年の七月、叔母さんは団地の六畳間でマキオと無理心中をした。そのことをようやく教えてもらったとき、僕は高校生になっていた。

 ふたりがどうやって死んだのかは、おじさんになった今でも知らないままだ。ただ、子供には言いたくない亡くなり方だったと、父がぽつりと漏らしたことがある。

 暑さのせいで、発見されたときのマキオたちの遺体はひどく傷んでいたそうだ。葬式にも呼ばれなかったのだから、きっと見せられないような状態だったのだろう。遺体の体液で汚れた畳を剥いでも、床板に黒い染みが残っていたという。

 僕は嬉しそうに板の間に座り込むマキオの幼い姿を思い出した。不思議と怖ろしくはなかった。マキオにとってはあそこが帰る場所だったのだ。

 空室になったD棟の101号室には、その後なかなか長く住む人がいなかったと聞く。現在その団地は人口減少のあおりを食って廃墟となり、しかし取り壊されることもないまま、未だにあの小さな町の片隅にある。

 なんでも、地元では心霊スポットとして有名らしい。噂によれば団地のどこかに、女性と小さな子供の声が聞こえる部屋があるそうだ。

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