第32話 誰がための能力(前編)

 田所碧という少女に出会ったのは、逢沢が、自宅で音楽教室を始めて少し経った頃のことだった。

 娘と同い年で、同じ漢字を名前に持つ少女。


 最初は単純に、歌の上手い子だと逢沢は思っていた。


 が、その印象はしだいに変わっていく。同時期に入ってきた黒田くろだ祐樹ゆうきとともに仲良くしていたと思われた三人の関係性に、気づいてしまったからだ。

 三人とも色を表す字が名前に入っていたことで、彼らは互いをアオ、みどり、クロと呼ぶようになっていた。音楽の才能は同じくらいで、教室でも切磋琢磨している。距離の近さから生まれたその好意が、単なる友人としてのものから異性に対するものへと変わるのは、あっという間だった。


 みどりとクロだけのものであれば良かった。けれども、現実はそう簡単にはいかない。

 歌も、恋も、アオは少しずつみどりを上回っていく。


 悲しむみどりを見ると、逢沢の心は痛んだ。アオの実力は認めざるを得ないが、みどりを悲しませることだけは許せない。

 彼女の才能を伸ばしながらも、同時に、どうにかして引きずり下ろすことができないだろうかと、逢沢は思考を巡らせはじめる。


 アオを、持ち上げてから、落とすように。


 大人げない、という意識ははじめからなかった。これはみどりとアオ、子供同士の戦いで、逢沢はただ娘の味方をしているだけだ。それだけのことで。

 音楽教室の経営者という立場を使い、アオがいちばん得意な歌、その粗探しをする。


 そうして見つけたのは、彼女の歌に対する違和感だった。


 それは、逢沢自身が彼女に下した評価のメモを読み返しているときに起こった。

 いくら粗探しをしているとはいっても、その評価は酷評が過ぎると思ったのだ。してもいないミスを取り上げるのは、音楽に関わる者としての矜持に反する。

 そう思って、評価時の録音を聞き返した。


(何だ? これは……)


 が、評価は間違ってはいなかった。細かすぎる部分もあったが、プロを目指すという建前であれば妥当な範囲。懸念していた「ないミスを論う」ようなことはしていない。それなのに、聞き返すまでの自分はそのことに気づけなかった。


 その評価と記憶の乖離は、ごく僅かではあるが、日に日に強まっているように思えた。


 ――能力だ。逢沢はすぐに勘づいた。他の子供についても同じような現象が起こっていれば、彼は自分の記憶力を疑ったことだろう。しかし現実に、記憶違いが起こるのはアオの歌に対してのみ。


 能力が関わるのであれば、超感覚研究所を頼るのが最善だ。

 計画を頭の中で練りながら、逢沢はアオの能力に関する情報を集める。研究所を利用する前に、自分にとって、みどりにとって理想的な結末を決めておきたかった。

 そのためには、まだ、ピースが足りない。


 三人の子供が、楽しげに演奏している様子が写った写真。

 真ん中で、大きく口を開けた少女に触れる。



「これはみんなには秘密だよ、アオ」

「うん、わかったわクロ。秘密ね」


 ちゅ、と、軽く触れるだけの小さな唇。

 くすぐったそうに笑う二人の奥で、悔しげに顔を歪ませた少女が見ていることも知らずに。


 ――そしてまた、アオの歌は逢沢の記憶をおかしくさせた。



(……先に、クロを調べる必要がありそうだ)


 クロに何らかの能力があることは明らかだ。

 能力は往々にして、本人の願望が反映される。ならば彼の願望を知っておく必要があると、逢沢は思った。


「君はあおいを好ましく思っているね」


 突然、音楽教室の事務室に呼ばれたクロは、緊張の表情から一転、驚きに大きく目を開く。そしてそれが肯定を示していることに気づき、慌てて目を逸らした。


「え、いや……その……」

「良い。私はもう知っている。それよりも佑樹。君は彼女に対して、何か願っていることがあるのではないか? それを教えて欲しい。先生として、私も協力できることがあるかもしれない」


 本当に? そう言わんばかりの瞳が、再び逢沢に向けられる。


「当然だろう? 私は君たちの音楽を広めたい。そのためなら、できる限りのサポートはするさ。……気持ちの面でも、ね」

「……わかった。うん、俺、アオのことが好き」


 クロがそう明言することで、逢沢は軋むような胸の痛みを覚えた。

 そこから何とも苦いものが広がっていく。自分の娘は、これ以上の痛みを感じているのか、と。


「でもそれだけじゃなくて、アオの歌も好き。あいつの歌は、もっとたくさんの人が聞くべきだと思ってるんだ」

あおいの歌、か。それは、彼女の歌が、もっと上手になることを願っているということかね?」

「……? アオの歌は、十分上手いと思うけど……。まぁ、あの上手さが伝われば良いとは、思うよ」


 クロのこの思いが能力に繋がっているのは確実だろう。

 しかし、彼の「アオの歌の上手さを伝えたい」という気持ちと、「アオの歌のミスに関する記憶がなくなる」という現象は、似ているようで、どこかはまりきらないように思えた。


「ふむ、そうか。では……茜音あかねのことは知っているね?」

っこい、ドラムが好きな?」

「そうだ。彼女にもキスをしてみてくれないか?」

「なっ、んでそれを……っ、じゃなくて……俺はアオが好きだから、他の子にはしたくない」

「くっくっ、君は良い男になりそうだ」


 逢沢はひとしきり笑い、それから、すうっと冷え冷えするような視線でクロを見た。


「――それが、アオのためだと言ったら?」

「……え?」


 びくりと震えたクロの肩に、逢沢は、今度は優しく手を置く。

 落ち着かせるように、言い聞かせるように。


「君たちはきっと、これから有名になる」

「有名に?」

「そうだ。アオの歌を、私だって広めたいと思う。勿論、君のギターもね。たとえば、ほら。バンドとか」

「バンド? やりたい! できるの?」

「君たちならね。だがそうなったときに、佑樹があおにだけ優しいというのは良くない」

「うん、知ってる。すきゃんだる、ってやつでしょ」

「よく知ってるじゃないか」

「……わかった。アオやみどりや、その、茜音にだけじゃなくて、誰にでも俺は優しくする。でも、心のなかだけは……」

「安心しなさい。そこまで縛るようなことはしない」


 縛らずとも、塗り替えてしまえば良いだけだ。そう考えていることを、当然、逢沢は語らない。




 逢沢がクロの能力を試すのにアカネを選んだのは、都合が良かったからだ。


 クロがアカネに口づけても、彼女の歌に変化はなかった。

 変化があったのは、アカネが持っていた能力だ。


(……やはり、そういうことか)


 アカネが能力を持っていることを、逢沢ははじめから知っていた。というのも、そもそも彼女が音楽教室に入ってきたのは、その能力を生かせるだろうと彼女の両親が考えたからだ。


 ――最強のリズムキーパー。


 のちにそう呼ばれることになるアカネの能力は、<受動型>の、見た楽譜その通りに演奏ができる、というものだ。

 クロの口づけによって、より難易度の高い楽譜でも、能力がカバーできるようになった。

 つまり、アカネの能力が強くなった。


 アオの歌に関する不思議な現象にも、説明がつく。クロは他人の能力を強めるという能力で、アオの持つ能力を強めていた。

 自分の歌のミスを、忘れさせる能力。

 歌の上手さは、能力の影響があったのだ。


(狡い子だ)


 アオを疎ましく思う感情が、憎悪に変わった瞬間だった。

 同時に逢沢は、自分が遊戯盤の前に座っているかのような感覚を覚える。駒を有効に使い、掴み取る結末。最後に娘が笑う未来を見た気がした。


「――綾斗あやと。君、バンドに興味はないかね?」

「バンド、ですか……?」

「そうだ。うちの教室からプロを出そうと思っていてね、君のピアノはあおいの歌と相性が良い」

あおい……アオちゃんが、うたうんですか……」

「おや? 彼女の歌は嫌いか?」

「いえっ! むしろ好きです。自由で楽しそうで、でも上手くて。僕が一緒にやれるなら、嬉しいです」

「……そうか。なら、頼んだよ。綾斗は頭も良いし、バンドが成功するよう上手くやってくれそうだ。それに……苗字も丁度良い」

「苗字? 黄瀬きのせ、がですか?」


 こうして、アオを排除するための第一段階、その土台は作られた。

 その思いと能力に大きな利用価値がある、クロとアカネ。まずはバンドを成功させる必要があり、そのための底上げと緩衝材としての、きぃ。すべては大事な大事な娘、みどりのために。

 アオ自身の能力も、利用して。


 それにしても、と逢沢はひとりほくそ笑む。


 クロは、アオの歌を、彼女の歌の力を、広めることを望んでいた。

 しかしアオは、歌に関する能力を持っていた。

 それゆえに、クロが強める対象は、歌の能力歌唱力ではなく、歌の能力超感覚となったのだ。


 逢沢にとっては、この上なく都合の良い能力だ。彼らからしてみれば、皮肉以外の何物でもないのだろうが。

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