第31話 碧色は揺らぐ

 スタジオの二重扉が開き、高級そうなスーツに身を包んだ男――COLORFULのベースボーカルみどりの父親であり、i'sグループの社長である逢沢が入ってくる。その後ろには、受付にいるはずの渡辺と、COLORFULのメンバー、クロとアカネの姿もあった。


 アカネが肩から提げていたトートバッグを床に下ろすと、中に入っているドラムスティックが、カツンと音を立て、何かのバンドスコアが顔を覗かせる。


「逢沢さん……。どういう、こと」

「本当は今年も、二人には七夕まつりで出会って欲しかったんだがな。君にはもう警戒されてしまっていたようだから、少しばかり強引な手段を取らせてもらった」


 ワタが椅子を勧めると、逢沢はアオの正面までそれを動かしてから座った。いかにも愉快そうな表情でアオの顔を覗き込む。


「アオには消えてもらいたいんだよ。COLORFULの碧色は、みどりだけで良い」


 逢沢あいさわみどり

 みどりの本名を知り、ワタは愕然とした。アオがそれを知らないはずがないからだ。


 あのときアオは、何を思っていたのだろう。トウカは碧色が選ばれなくてもと言ったが、COLORFULはもう、碧色を選んでいた。

 アオはわかっていて、自分たちの思いを受け入れてくれたのだ。

 そんな彼女の気持ちを考えることが怖いと思った。


 自分の父親が、ひいてはその雇い主がアオを排除するために動いていると知ったとき、こうなることは予想できていた。

 だからアオに情が移ることのないように。

 あまり関わらないでおこうと、深入りせずにいようと、決めたのに。


 それでも、アオとトウカがあまりに幸せそうで。そんな二人をずっと見ていたいと、思ってしまった。


 せめて自分は直接手を出していないと、言い張れるようにしたかった。

 能力がないから何もできないと、言ってしまいたかった。


 けれども何もしないということは結局、手を貸すのと同じことだ。それに、たとえアオが作曲サークルに入ってこなかったとしても、ワタが何もしなかったとしても、逢沢には別の手段がある。彼の描いた結末は変えられない。

 それならば。

 アオという人間を知ってしまったワタは、その過程が少しでも、アオにとって楽しい時間であることを願った。それすらも逢沢の手の内であると、知りながら。

 自ら、彼の目のひとつになることを望んだ。


「誰もが存在を忘れてしまえば、それは消えたも同然だ。会ったこともない人が、君のことを忘れている。まるで世界中が敵になったみたいだろう」


 一つ一つの言葉が、アオの心を抉ろうとしている。それに耐えるアオを、逢沢は愉しそうに眺めていた。


「……ああ、世界中が敵になることはないと考えているのだったか」


 驚きに染まったアオの目が、緩慢な動作でワタを捉える。

 自分の協力をアオが知ることになると、覚悟はしていた。だが、いざ直面してみると、それはどんな予想よりも厳しくワタを追い詰める。

 アオの視線を真っ直ぐ受けることすら、困難だ。


 ワタが目を逸らすと、アオはそれ以上の追及はせず、諦めたように息を吐いた。


「どうして、こんな、こと……」

「どうして? 私の可愛い娘が、同じ色である君に悲しい思いをさせられていた」


 たとえ忘れていたとしても、世界が刻む時間は一つだけだ。

 なかったことにはならない。できないのだ。

 だからこそ、みどりの悲しみは本物なのだという。


 そうだとして、アオの悲しみはどこへいくのだろう。

 ワタは、その答えを出せずにいる。出せずにいたから、ここまできてしまった。


「悲しむ娘を喜ばせることは、当然のことだろう。君が消えれば、みどりの悲しみのほとんどがなくなる。合法的に君を消すために、私はずっと前から準備してきた。……くっくっ、本当に、君たちの能力は都合が良い。ただ、誰もがアオという人間を思い出さない。たったそれだけ、それだけのことなのだ」


 逢沢の、アオに対する恨み方は異常だと、前に父である渡辺から聞いていた。本当にその通りだとワタは思う。目の前で、ひとりの女の子を消し去りたいのだと愉しそうに語るこの男は、とても正常には見えなかった。


 逢沢はザッと立ち上がり、大げさに両腕を広げてみせる。

 手狭なスタジオ内で、彼はひとり、堂々としていた。


「私自身は大した能力を持っていないが、素敵な仲間がたくさんできた。みんな私に協力してくれる」


 その中に自分も含まれていることに、ワタは嫌悪感を抱く。この場にいる誰もが、逢沢に弱味を握られていたとして、それでも否定することはできない。否定したとしても、アオは納得などしないだろう。

 これから起こることを考えれば、なおさら。


 何が起こるのか。クロがいることで、アオもその一端には気づいているはずだ。きゅっと引き結んだ口もとにも、それが表れている。けれども。


(……もう、何をしても無駄なんだ)


 渡辺がいる限り、アオにできることは何もない。彼がいつも着けている軍手を外してしまえば、もう。


「渡辺くん。そっちの準備は問題ないね? もう少ししておくか?」


 聞かれた渡辺が、ちらりと隣に立つクロを見て、笑いながら首を振った。その唇は、少し腫れぼったくなっている。


「いえ。若くて格好良い男の子に迫られるのも悪くはありませんでしたけどね。僕はもうお腹いっぱいです」

「そうか。……アカネ」


 逢沢はアカネの足もとに置かれたトートバッグから、バンドスコアを取り出した。それを受け取ると、アカネは場違いにも思える程の笑顔でページを開く。

 まるで、大切な物語を読んでいるかのように。


「……クロ。七夕の約束だよ。アオちゃんに、キスして」


 が、再び顔を上げて発せられたのは、事務的な口調と、違和感のある言葉。クロの背中をそっと押す。

 そこに反応するのは、アオだけだ。


「アカネも。能、力を強められて、いた……のね。だから……」

「クロ。七夕の約束だよ。アオちゃんに、キスして」


 無言で頷いたクロが、アオに近づく。その時間は長いように思えて一瞬で、ふるふると力なく首を振るアオの顎に、長くて綺麗な指が添えられる。


「ク、ロ……やめて」


 彼女に賛同する者はいなかった。

 アオを害するわけではないという計画が、彼らに罪悪感を生み出させない。

 たったひとりを忘れるだけで、何の罪を犯すこともなく、自分たちの未来が救われるのだ。


「約束は破れない。……俺たちは、織姫と彦星だから」


 ドラマのワンシーンのような台詞とともに、クロがアオに口づけをする。

 何度も、何度も。見ている者が、愛し合う恋人かと錯覚してしまうくらいに。


 うたうことを許されなくなってしまうことへの悲しみのためか、為す術がないことへの無力感のためか、はたまた、好きだった人からの心のない口づけのためか、わからない。

 涙で頬を濡らすアオは、はっとするほどに綺麗で。


「貝塚くん。ご苦労。もう良いだろう」

「はい」

「ロビーに軽食と薬を用意している。休んでおいで」

「ありがとうございます」


 お辞儀をしてスタジオを出る貝塚を見送る。

 その扉の横で、渡辺が密閉型のヘッドホンを装着し、音楽プレイヤーを操作している。その時は、もうすぐそこだ。


 貝塚の能力から解放されたはずのアオは、力なく椅子にもたれかかったまま、それでも強い光をその瞳に宿している。


 アオは自分がうたわなければ良いと思っているのだろう。しかしそれは違う。ここにアオがいる必要は、すでになくなっていた。

 その理由にワタが関わっていることを、彼女はこれから知る。


「柄でもないが、わくわくしてしまうね。誰にも認識されない人間は、はたして、存在していると言えるのだろうか?」

「私は、ここに、いるわ……!」

「そう、君だけがそれを確認することができる。可能ならば、私も、この世界の外側から見てみたいものだ」


 逢沢が目を向けると、渡辺はいま一度スタジオの扉が開けられていることを確認し、片方の軍手を外した。その手を宙に、そっと置く。

 彼の瞳に一瞬だけ浮かぶのは、恐怖と、憐れみの混じった光だ。


「さあ、ショータイムの始まりだよ」


 無情にも、逢沢はゴーサインを出す。アオと世界の関係を、何もかも壊してしまう合図を。


 再生ボタンが押された瞬間、どん、と空気が震えた。

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