三章 のばせば、てがとどきそうなきがしたから
第30話 夕立は唐突に
(……暑い)
超感覚研究所の食堂で水を飲みながら、岸はそう心の中で呟いた。目の前では、彼の上司である小林が醤油ラーメンをズズッとすすっている。
食べ物の匂いがこもる食堂に、普段、岸が入ることはない。
けれども時折、他人との関わりを重視する小林によって連れて来られるのだ。
岸はそれを迷惑どころかありがたいと思っているし、実際、匂いによる能力の発動よりもこの空間の蒸し暑さの方が気になっていた。
麺が伸びてしまわぬよう食事に集中しはじめた小林から視線を外し、涼しげに見える食堂の外に目を遣る。昼休みの時間が決まっているわけではないため、書類やら、何かの機会やらを抱えた仕事中の職員たちがせわしなく歩いていた。
(……あれは)
「誰だ……?」
思わず口をついて出た疑問に、小林が顔を上げて岸の視線の先を追う。
ゆったりとした歩調で、しかし、堂々とした威厳を感じさせるスーツ姿の男が、職員の供もなく歩いていた。首から下げられた赤いストラップのネームホルダーは、研究所の来客者であることを示しているのに。
「あぁ」
けれども、小林は何ということもないという風に笑う。
「i'sグループのトップだよ。
そのグループ会社は岸も知っている、有名企業だ。芸能事務所を軸に、様々な事業を展開している。そして――。
「岸くんも知ってるだろう? 彼の娘さんは、あのCOLORFULのボーカル」
「……はい」
アオのことではない。ベースボーカル、みどりだ。
そんな逢沢がどうしてここに、という更なる疑問は、小林が解決してくれる。
「能力を使った事業にも積極的に手を出してるって話だ。今日は十年かけて準備したイベントなんだとさ。詳細は知らんけどさぁ、ホント、念入りだよね」
「十年……?」
何かが引っかかった。岸は携帯電話を取り出し、i'sグループについて検索する。
「アオぉ、暑いよぉ。冷房つけて」
「オーケー」
「……よくこの暑さで耐えられるな」
「乾燥するからと我慢していたら、室内の暑さに慣れちゃったのよ」
アオはサー室に入ってきた瞬間に眉を顰めた二人に、気づかなくて悪かったわ、と謝りながら空調の電源を入れる。そしていつもの定位置に戻ると、携帯電話がメッセージの受信を知らせた。
「ワタだわ。珍しい」
「かいちょー? どうしたの?」
「……えぇとね、『急で悪いんだけど、今からスタジオ来れる? アオに頼みたいことがあって』? やっぱり珍しいわね。……まぁ良いわ、行ってみる」
広げていた紙をささっと鞄にしまって立ち上がると、トウカに呼び掛けられる。
「夕飯は?」
「そうねぇ、レコーディングかもしれないし、時間がわからないわ。今日は別々にしましょう」
「オーケー」
アオの真似をしたトウカに、ふっと笑みを零すアオ。
「熟年夫婦か?」
「おぉ? 羨ましいのかぁ?」
「……そういうわけじゃない」
そんな二人の声を聞きながら、アオはサー室を出た。
この辺りの甲州街道は並木道になっているが、陽射しは強く、ジリリと皮膚を焼く感覚がある。自転車を走らせたときの風だけでは、とてもその暑さには勝てない。アオは早くスタジオに着きたいと思いながら、強めにペダルを踏み込んだ。
「音楽スタジオ『horen』」と書かれた立て看板の奥に自転車を停め、軽快なリズムで階段を下りる。いつも通り受付に座っていた渡辺がアオに気づき、「渉ならBスタだよ」と言った。それに頷き、廊下の奥の方、突き当たり手前の扉を開く。
「アオ。久し振りだね」
「えぇ久し振り。……そちらは?」
ベースアンプの前に簡易テーブルを置き、レコーディングするときのように座ったワタの隣。アオの知らない男性が立っていた。
「うん、今回の依頼者だよ。
夏なのに分厚くて大きなジャケット、そしてだほだぼのズボンという、何とも締まらない格好の男だ。ボリュームのある髪が顔全体にかかっていて、その表情はよく見えない。
「はじめまして、貝塚です。急な依頼を受けていただき、ありがとうございます」
その見た目とは裏腹に、貝塚の口調は丁寧だった。
握手を求めて差し出された彼の手を、アオがにこやかに握った、その瞬間――
「えっ……?」
――アオは、身体の自由を失った。
「……ごめん、アオ」
上手く動かせない視界の端で、顔を歪めたワタが呟く。そのメガネの奥で、涙が光っているのを、アオは見た。
岸はi'sグループのサイトを開き、沿革のページを見てみる。
一番上はアオが言った通り、杉並区に作られた音楽教室から始まっている。それが十七年前。十年前は丁度、グループ会社の前身となる会社が設立した年のようだ。そのすぐあとから、超感覚研究所との取引を開始していた。
驚異的なスピードで会社が成長し、幅広く手を広げていることはわかったが、特にこれといった情報は見つからない。
逸る気持ちを抑えながら、他のページに遷移する。経営理念や、事業内容、イベント……果てはリンクページまで。
子会社や、他のレコード会社。超感覚研究所へのリンクもある。
そして下の方、i'sグループが直接経営している楽器店やCDショップの中に、それはあった。
――音楽スタジオ『horen』。
まさか。そう思った。
が、以前アオに言った言葉が自らの思考を否定する。
「……考えられるということは、可能性があるということだ」
「……ん? 何か言った?」
岸は、手の中の携帯電話を強く握りしめた。
「室長。今日、急ぎの仕事、ありませんよね」
言葉数の少ない岸の表情を、小林はよく見るようにしている。その甲斐あってか、彼女はすぐに岸の言いたいことを察したようだった。
「……何かあったんだね。良いよ、行ってきな」
「ありがとうございます」
逢沢の姿はとっくに見えなくなっていた。たとえ悪い予感が当たったとして、今から芦花公園駅に向かっても、彼に追いつくことはできないだろう。
岸は足早に研究所を出て駅へ向かいながら、祈るような気持ちでアオに電話を掛けた。
だが、何度呼び出し音が繰り返されても、アオが反応することはない。
大丈夫だ、焦るな、と自分に言い聞かせながら、今度はトウカに電話を掛ける。こちらは数コールで出た。
『岸さん? 今日は卒業生からの連絡が重なるねぇ』
(……当たりか)
「ワタも?」
『そう。ついさっきね、アオが呼ばれてスタジオに行ったよ』
「……今サー室か? フジサキは?」
『うん、いるよ。スピーカーにしよっか』
すぐに切り替えられたのか、フジサキの声も聞こえるようになる。一度深呼吸してから、岸は静かな声で語りだす。
「良いか、落ち着いて、聞け――」
身体に力が入らなくなって崩れ落ちそうになったアオを、貝塚が強い力で支える。ワタが用意した椅子に座らせて、自分もその隣に座った。握手をした手は、そのままだ。
「お辛いでしょうが、少し我慢していてくださいね」
「あの……これ、は……」
ずっしりと重い身体。張り付いたような喉に、アオは声を出すのにも一苦労だった。
「私の能力です。直接触れた相手と、自分の身体の感覚を共有することができます」
貝塚はそう言って、空いた方の手でジャケットの裏側を見せる。そこには重りのような金属板がびっしりと縫い付けられていた。身体の重さは、これが原因だ。
だが、それだけではない。アオが今感じているのは、強烈な空腹感と、喉の渇きと、それから、寒気。あちこちの関節が痛かった。熱があるときのようだ。こうして能力について説明されても、握られた手を振り払うことすらできない。
しかし、本当に同じものを感じているのだろうかと疑わしくなるほどに、貝塚は平然としている。
そんなアオの気持ちに気づいたのか、貝塚はふっと笑った。
「疑っていますね。それでも構いませんけれど」
ただ、私はそういう風に鍛えているだけです。変わらぬ口調で話す貝塚の表情は、やはりよく見えない。よって、その顔色が酷く悪いことには、アオも、ワタさえも気づかなかった。
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