第26話 夢と羨望と嫉妬(碧の場合)

 ――絵が完成したから、サー室に来てくれ。

 そう連絡を受け、講義を終えたアオは足早にサー室へと向かった。


「あ、アオ!」

「こんにちは、トウカ」


 が、入室したアオを出迎えたのはトウカ一人であった。いつも通りソファに座り、画用紙にイラストを描いている。どうやら学祭用のポスターを作っているようだ。


「……フジサキはまだ来てない?」

「うん、今日は見てないよ」

「そう」


 小さく息を吐きながら、アオは階段下の椅子に腰掛けた。ギタースタンドに置かれたアコースティックギターに手を伸ばすが、持ち上げずにそのまま、親指で弦をはじいていく。


 ――ポロン、ポーンポーン……。


 トウカが動かしていた手を止めて、アオを見た。


「何、待ち合わせ?」

「学祭で展示する絵ができたって聞いたのよ」

「おおぉそれはわたしも見たいですねぇ」

「もう来ているかと思っていたのだけど」

「……フジサキ、もしかして隠れてる? いないのぉ? この下に潜ってたりは……しないか」


 いきなりソファの下を覗き込んだトウカに、アオがぷっと吹き出す。


「彼がそんな幼稚なことするはずがないでしょう」


 アオがそう言うと、トウカは長い髪を掻き上げながら身体の位置を元に戻した。

 夏の間はお団子頭にしていることが多かったが、ここ最近は、初めて出会った日のように下ろしている。癖のある髪がふわりと背中に流されるのを見ながら、少し伸びたかな、とアオは思った。


「……それにそこ、私でも入れないわよ」

「そうだけどさ。でもほら、フジサキが前に『絶対ない、と言い切ることはとても難しい』って言ってたじゃん」


 フジサキの声真似をするトウカに、アオはまた笑いそうになったが、ぐっと堪えて仏頂面をしてみせる。


「『まぁ、日常で絶対が通じないことは滅多にないけどな』とも言っていたわよ」


 今度はトウカが、ぶふっと吹き出した。


「アオがそれやるのは狡いっ!」

「参ったかしら?」

「参りました」


 少しだけ恨めしそうなトウカに、よろしい、と尊大に頷いてから、アオは、ぽんと両手を叩く。


「……そういえば、チューチューアイスはまだあるかしら?」

「ん……? あぁ、ポッキンアイス? まだあるよ」

「あっ……」


 はっとして口もとを押さえると、トウカはきょとんと目を丸くした。


「……笑わないのね」

「今、笑うところだった? あはは……」


(何を大事に思うかは、そりゃあ、人それぞれだけど……)


 まるで笑いどころがわからない、といった様子のトウカを見たアオは一瞬、悲しげに目を伏せたが、彼女に気づかれる前に笑みの形を作る。


「いえ。良いわ。……アイスが残っているのなら、近いうちに食べましょう」


 その時、扉がガチャリと開いた。


「悪い、遅くなった。……どうした?」


 二人の間の微妙な空気を感じ取ったのか、入ってきたフジサキが訝し気に眉を顰める。わかりやすい作り笑いをしていたトウカが、ぱっと立ち上がってフジサキに駆け寄った。


「フジサキぃ、待ってたよぉ! 絵、できたんでしょ? 見せて見せて!」

「わかった、わかったから。痛い」


 ばしばしと肩を叩いてくるトウカに、先程とは違った意味で眉を顰めるフジサキ。ごめんごめんと言いながらも、興奮した様子は収まることなく、トウカはぼふんとソファに座った。

 はぁ、と溜め息をつきながら、フジサキもその隣に腰掛ける。それから、キャリングケースを開けて二枚の絵を取り出した。アオは二人の後ろに回り込む。


「うわぁ、凄いね!」


 一枚は、夏に見た、淡い色調の風景画。もう一枚が新しく描かれたもので、より色鮮やかに、そして、繊細なタッチで表現されている。生き物の姿も増えているようだ。


 フジサキが携帯電話を操作して、アオの作った曲を再生する。


 静かな湖畔。

 周りには何もない。

 時折、穏やかに風が吹いては、湖面に小さな波を立てる。

 繰り返し、繰り返し。そよそよと。さらさらと。

 そのうちに、遠くの空から鳥の番がやってきて、ちゃぽんちゃぽんと着水する。それから、滑らかに泳ぎ出した。

 四本の波の線が、交わったり、離れたりしながら長くなっていく――。


 そんな景色が、目の前に広がっているようにアオは感じた。


「……やっぱり、あんたの曲は凄いな」

「……フジサキは、凄いわね。……え?」


 同時に褒め合った二人が、顔を見合わせる。

 隣で、トウカがくすくすと笑っていた。




 誰もいないはずの家に帰ると、リビングの方からガヤガヤと音が聞こえてきた。おかしいと思いつつリビングを覗いてみると、音の出所はつけっぱなしになっていたテレビであることがわかった。

 ワイドショーの楽しそうな司会者の声が、誰もいない部屋に響いている。


 消すためにリモコンを取ろうとして、しかし、アオはその内容に気づいて手を止める。


「みどり……」


 COLORFULの特集で、ベースボーカル・みどりのインタビュー映像が流れている。来週リリースされる新譜のこだわりや、初めての海外ツアー、これからの目標などを語っているようだ。

 それは希望に溢れていて、アオがいた頃と変わらない、いや、それ以上に輝いているように見える。


『――では、最後にファンの皆さんへメッセージをお願いします!』

『はい。ここまでくる間に、諦めたことも、手放したものもたくさんありました。でもこうしてここにいられるから、みんなの応援があるから、頑張って良かったと。心からそう思っています。本当にありがとう』


 そこでみどりは、丁寧にお辞儀をした。彼女のこの、明るい性格ながらも慎みのある言動が、老若男女問わず人気を博しているのだ。


『……実は、まだ夢は叶っていないんです。ふふ。だからまだまだ頑張りますよ。これからも応援、よろしくお願いしますね!』


 テレビ映えのする笑顔でそう締めくくった、みどり。そんな彼女と、目が合った気がした。

 ドン、と心臓の音が強くなる。


(……なんて、カメラ目線なら当たり前ね)


 これもファンサービスのようなものだ。アオだってそれくらいのことは普通にしていた。

 けれども何故か、アオは胸のざわつきを抑えることができずにいた。

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