二章 わすれていた、ほんとうのことをしる
第24話 その輪郭は曖昧になり
九月も半ばになり、夏休みが終わった。
残暑が続く中、学生たちは自らの領分を思い出し、キャンパスへと戻ってくる。
と言っても、作曲サークルのメンバーにとってはそう変わらない。夏休みの間も何度かキャンパスに足を運んでいたし、学生生活におけるサークル活動、という意味では、週に何度もスタジオで作業していたのだ。
彼らにとっては、「講義の時間が戻っただけ」という認識であった。
トウカがサー室に入ると、会長とアオは何やら機材の準備をしていた。
その様子を見て、そういえば今日はナレーションを録る日だったとトウカは思い出す。二日前に学祭運営委員の岩井がやって来て、完成した原稿を置いて行ったのだ。
「ここで録るんだね。わたし、出てた方が良い?」
トウカがそう尋ねると、会長は優しげに目を細めながら首を振った。
「いや、大丈夫だよ。音質が低すぎなければ良いらしいから、多少のノイズは問題ない」
「トウカ、静かにしていられる?」
「当ったり前でしょ!」
マイクの設置が終わると、アオはいつもトウカが座っているソファに腰掛けた。会長がパソコンの準備をしている間、これから読む原稿の確認をするらしい。
トウカはアオの後ろへ回り、一緒に覗き込む。
(……意外)
依頼のあったナレーションを使用するのは、超感覚研究所との合同研究に関するステージだ。そのイメージから、トウカは報道キャスターが読み上げるような内容だと思っていたのだ。
けれども、この原稿は全く違うものだった。と言うのも――
「……随分と抽象的な文言ね。良く言えば……詩的、というか」
アオも同じことを感じたらしい。そこに含まれた感情を読み取ったのか、会長が、あぁ、と苦笑い気味に頷いた。
「研究所は、自分たちの堅苦しさを自覚してはいるみたいだね」
「余計にわかりにくくなっているじゃないの」
呆れた様子のアオを見て、会長がくっと笑う。
「それはまぁ、否定できないよね。でもま、僕たちがあれこれ言っても仕方ないことだ」
「そうね。これからの岸さんに期待しましょう。……準備、できたのかしら」
会長が隣に座るのを見て、アオはマイクを口もとに寄せた。
「うん。始めようか」
――抽象的で捉えどころのない言葉が、アオの声にピタリとはまる。
淡々とした語り口は、言葉そのものを際立たせ、すっと頭に入ってくるようだ。
目を閉じてその声に聞き入る。母親の寝物語を聞いているみたいだと、トウカは思った。
「僕は能力がないからさっぱりなんだけど、君たちはこういう感覚、わかるもんなの?」
ナレーションを録り終わると、雑談の時間が始まる。
会長が口にしたのは、原稿の内容についてだ。能力が発動したときの感覚が抽象的に表現された箇所を指差している。
アオはそこをじっと睨み、数秒ほど唸っていたが、やがて首を振った。
「私は<能動型>の、それも自分には全く影響のないものだから。こういうのはわからないわね」
「わたしはわかるかも」
トウカが楽しそうに、アオを見て言った。
今、トウカの能力を最も多く発動させているのはアオだ。それをわかっているから、アオは何とも言えない気持ちになる。
「君たちの能力では大変なことが多いのだろうけどさ。僕からすると、能力持ちは特別って感じがして、羨ましいね」
「そういうものよ。私だって、ないものは欲しくなるわ」
「アオの欲しいものってなぁに?」
「私が欲しいのは――」
うたえる声、とアオは心の中で呟く。これはトウカの前で言うべきことではない。
「楽しい思い出、かしら」
代わりに口にしたのは、未来への贈りものと、期待だ。
偽りではない、これもアオが求めているものの一つだった。
「来年には手にしていたいわね」
「そうだね、来年どころか、十年後も、おばあちゃんになっても、だよ。持てないくらいの思い出を作ろうね?」
トウカはそう言って、へらりと笑った。
つられて緩みそうになる頬を引き締め、アオは、来年手にしているであろう思い出の候補たちについて考える。大学に入学してからの数か月で、すでに両手では数えきれないほどのそれがあるように思えた。
「……でもさぁ、最近集まり悪いよね。岸さんは研究所が忙しいってわかるんだけど」
「僕もスタジオが忙しいんだよ」
「お客さん来ないのに?」
「来ないのに」
むすっとした表情で詰め寄るトウカを、会長はやんわりと押しとどめた。彼が「やることは色々あるの」と言うと、トウカはまだ納得のいかない様子を見せながらも少し離れる。
「ふーん……。あ、じゃあフジサキは?」
二人の視線が一気にこちらに向いて、アオはぴくりと肩を跳ね上げた。どうして自分に聞かれるのかわからなかったが、一応その理由を考えてみる。
「曲を作っているんじゃないかしら。家にもピアノがあるようだし、集中できるでしょう?」
「……あ、それはあるかも」
「去年みたく張り切ってそうだ。展示用の曲はどう?」
「フジサキに頼まれていた曲は終わっているわ。トウカとの曲も、レコーディングが残っているだけね」
フジサキの展示を真似て、アオとトウカも、能力を使った作曲をすることにしたのだ。
アオがうたい、それを聞いたトウカが詩を書く。そしてその詩を元に、アオが曲を作る。フジサキの展示と対になるような作曲方法だ。
さすがにアオの歌をそのまま流すわけにはいかないため、展示用のボーカル部分は音声合成技術を使う予定である。原曲を聞くことができるのはトウカだけだ。
「そうそう。そういえばさ、アオ、歌上手になったよね」
「え……そうかしら」
「しばらくうたってなかったから下手になったって、言ってたでしょ? それが戻ったんじゃないかなぁ」
「そんなすぐに戻らないわよ」
絶対そう、と息巻くトウカに対して、アオは、本当にそうだろうかと首を捻る。多少は感覚を取り戻していたが、そこまでの変化はないはずだった。
かと言ってトウカの耳が悪いわけではない。何かしら、そう聞こえた理由があるのだろう。
(歌はともかく、作曲の方は確実に上達しているわけだし……)
と考えている途中で、アオはナレーションの録音が終わったらやろうと思っていたことを思い出した。
後ろで突っ立ったままのトウカにソファを譲り、アオはピアノの椅子に座る。ギィッと蓋を開けると、会長が「何弾いてくれるの?」と眼鏡の奥にある瞳を光らせた。
「メインステージのBGMを作っていないのよ。そろそろやらなくちゃと思って」
その言葉に、トウカが行儀悪くソファの上で膝立ちになる。
「おぉ、テーマは? 決まってる?」
「『成長』、にするつもりよ」
「良いね、学生っぽいじゃん」
でしょう? とアオは口の端を持ち上げた。
息を吸って、吐いて。ターン、ターンと鍵盤を叩き始める。
そこから続くのは、若々しくも、知的な歩みを感じさせる旋律。
この曲が流れるのは、秋も深まった頃だ。
空は、どんどん高くなっていく。
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