第23話 夏の思い出は移り変わり

「――おいっ!」


 塞がった視界の向こう側から、フジサキの焦ったような声が聞こえた。

 普段であれば、アオはからかいの言葉ひとつくらい投げかけたことだろう。しかし今、アオは自分の状況に対応することで精一杯だった。


 突然の再会と、自分の頬を包む大きな手と、重ねられた唇。


 それを当たり前に受け入れている自分に、嫌気がさす。

 さして力の入っていないクロの腕を振りほどくことなど、簡単にできたはずだ。それなのに、アオはそうしなかった。


 できなかったのではない。しなかったのだ。


 クロに綺麗すぎる笑みを向けられた瞬間、アオの胸を貫いたのは、突き上げるような喜びだ。

 心の奥底で、アオは期待していたのだ。


 一年に一度だけ。ささやかな、二人の触れ合いを。


 


 駆け戻ろうとしたフジサキの腕は、アカネの手によって止められた。


「あのっ……もう少しだけ……」


 サングラスの上からでもわかる彼女の下がりきった眉は、困っているというよりもむしろ、悲しんでいるように見える。その理由に思い当たったフジサキは、やや声のトーンを落とした。


「あの二人は……そういう関係、なのか?」

「そういう関係……?」


 しかし、アカネは何のことか見当もつかない様子で、こてりと首を傾げた。

 何故こんなことを言わなければけないのか。そう思ったが、その心の動きの元になっている感情を、フジサキは理解していない。だからこそ、口にすることはできる。


「だから、その……付き合っている、とか」

「ちがっ! クロと付き合ってるの、あたしだから……!」


 言った途端にはっとするアカネ。ちょん、と両の指で作ったバッテンを口に当てる。小動物を思わせるようなひとつひとつの動作がフジサキにはどうにも苦手に思えたが、同時に、その答えに安堵する自分がいた。


「い、今のはオフレコでお願いします……」

「……あ、あぁ」

「じゃあどうして、と思われるかもしれませんが……」


 ちらっと二人を見て、あかねは少し言い淀んだ。


「あの二人にとっては、大事なことなんですっ。儀式……そう、儀式みたいなもので」


 年に一度、彼らはこうして出会うことが必要なのだと、アカネは言う。

 それは過去の約束を守るためでもあり、未来の目標を達成するためでもあると。


 アカネの言葉を聞きながら、フジサキは小さな違和感を覚えていた。

 今までに何度か、アオからCOLORFULの話を聞いたことがある。そのとき彼女は決まって、寂しげで、それでも懐かしむような、やわらかな表情をしていたはずだ。

 けれども、目の前の女性は違うように思える。その表情はサングラスに隠れてよく見えないが、声音からは思慕の念を感じ取れない。それよりもむしろ、事務的で、淡々としていた。

 そのことに対する疑問が、フジサキの口をついて出る。


「あんたらは……アオを、覚えているのか?」

「……いいえ」


 ふるふると首を振ると、彼女の肩に提げられたトートバッグ、そこから覗くドラムスティックが、カカッと音を立てた。


「必要だから。それだけのことなんです」

「……」

「だけど、アオちゃんはわかってると思いますよ」

「まぁ、そうだろうな」


 それは何となくフジサキにも想像がつく。

 アオは、悩みながらも現実を受け入れて、それでも自分にできることをしようと、前を向くことのできる人間だ。

 それならば、悩むアオのすぐ傍で、一緒に前を向けるように。そうありたいと、フジサキは思う。


「COLORFULのことは、知らない。俺が見ているのは今のアオだ」

「……終わったようですね」


 クロが、サングラスを掛けながらこちらへ向かってくる。その奥で突っ立っているアオの表情は、よく見えない。


「アオちゃんのこと、そうやって大事に思ってくれる人がいて、安心しました。……では」


 全くそう思っていないような口調で言い残し、アカネは横に並んだクロとともに商店街の中へ消えていった。




 僅かに開いていた互いの唇から、零れた吐息が混ざり合う。

 それを名残惜しい、と思う間もなく、触れていた箇所も、目線も全部、すぐに離れていった。


「また来年会おう。『何度でも、夏の終わりを繰り返』すのだろう?」

「――っ」


 漏らしそうになった嗚咽を、アオは唇を噛むことで耐えた。


 嫌いになってしまった夏を、ようやくまた好きになろうとしていたのに。

 たったこれだけの、言葉もほとんど交わさないような触れ合いが。好きだった頃の夏が、アオの、新しい季節の邪魔をする。


 わかっている。わかっているのだ。


(あの曲のことを、クロが覚えているはず、ないのだから)


 クロが口にしたのは、COLORFULでアオがうたっていた曲の歌詞だった。


 甘酸っぱい夏の約束。

 それを形にしたくて、書いた曲だ。……せめて歌の中だけでも、と。


 もう思い出すことはないと思っていたあのときの感覚が、一瞬で蘇る。

 優しげに細められた瞳に、熱はこもっていない。それでも、と期待してしまう自分の弱さを、アオは思い知った。


(……中身のない約束なんて、守らなくたって良いのに)


 背を向けて去って行くクロとアカネを見送る。


 それから二人は、ぼんやりとしたまま商店街に入り、来た道を戻った。

 フジサキが何か聞きたそうにしていることには気づいていたが、話しかけてこないのを良いことに、アオは何も言わなかった。

 周囲のざわめきが、遠くから聞こえてくるように感じる。


「今日はありがとう」

「……っ、あぁ」


 駅に着いたところでようやく口を開くと、フジサキは一瞬、びくりと肩を震わせた。そこで、くす、と笑みを溢す余裕が戻って来たことに、アオは気づく。


「え、っと。曲は、もうすぐできると思うわ」

「早いな。できたら送ってくれ」

「えぇ」


 いつも通りでいることを願って、アオは改札口に向かうフジサキに手を振った。

 きっと近いうちに、作曲サークルのメンバーには話せるようになるのだろう。そう、思いながら。

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