第22話 見える色はどんな色
『平面と立体のスキマ展』
ギャラリーの入口横、天井から吊るされた真っ白な布に、その文字は書かれていた。
後ろからプロジェクターで映しているのだろう。展示会のタイトルの周りに、不思議な形の模様が浮かんでは消えていく。
フジサキとアオがいるのは、阿佐ヶ谷駅から少し北へ離れたところにある、こぢんまりとした貸展示場だ。
「こんなところの展示なんて、よく見つけたわね」
「いや、会長から教わったんだ。アオを誘ってみたらどうかと」
「そうだったの。……こう言っては何だけど、彼、興味なさそうなのに。偏見だったわ」
そう言いながらも疑うように笑ったアオへ、フジサキは曖昧な笑みを返した。
会長に教わったのは、学祭で展示する曲をアオに手伝ってもらいたいというようなことを、フジサキがそれとなく漏らした後のことだ。
数日後、いきなり提示されたいくつかの展示会の情報は、どれもフジサキの興味を引くものだった。きっと、会長はフジサキのやりたいことを完全に察したのだろう。
思わず口元が緩んでしまったのも、仕方がない。
(……本当に、会長は人のことをよく見ている)
二人は簡易テーブルで作られた小さな受付で入場料を払い、それぞれパンフレットと、中にあるというカフェスペースで使えるドリンクチケットを受け取った。
パンフレットの表紙には凹凸のある紙が使われていて、角度によって見える色が変わるようだ。平面とも、立体ともとれるデザインで、このテーマをよく表している。
小さな展示にしては、細かいところも凝っているのだな、とフジサキは思った。
防音効果のありそうな分厚い扉を開き、すぐ目の前にあった暗幕をよけて中へ入る。
「うわっ」
目に飛び込んできたのは、暗闇の中に散りばめられた光だった。
赤だったり青だったり、緑だったり。様々な形のそれは絶えず室内を動き回っていて、ゆっくりと明滅しながらその色を変えていく。
ホログラムであることは、わかる。
しかし、それはまるで、色とりどりに光るホタルのようだった。
フジサキは安心した。展示室の中が無音だったからだ。
たまにあるのだ。流れているBGMが、展示の内容と合わないような景色を見せる音であることが。最近はそれも展示の一部と割り切れるようになったが、できれば何もない方が望ましい。
やがて、暗さに目が慣れてくる。フジサキは、光がぼんやりと照らす壁に、絵が描かれていることに気づいた。
よく見てみようと近づくと、それは布に施された刺繍であった。光に合わせて移動してみれば、刺繍は、縦にも横にも広がっているようだ。
刺繍糸自体にも秘密があるのか、光の明滅に合わせて脈打つように模様が変わっていく。
風景画だ――。ふと、フジサキはそう感じた。
光に照らされた部分しか見ることができないが、それが逆に、田舎を走る電車の中、窓から見える田園風景を思い出させたのだ。
風に揺れる豊かな穂と、陽を浴びて輝く水路。
遠くには大きくて鮮やかな色彩の橋が架かっていて、近くをのんびり走っているトラクターを追い越すのは一瞬で。
時折抜けるトンネル。その明暗の差に、目がチカチカするような――。
と、そこまで見て、フジサキは思考を止めた。
数度、意識的に瞬きをしてから辺りを見回す。出入口がわからなくなったのだ。絵の描かれている布はずっと続いていて、ぐるりと部屋を一周している。最初に暗幕と思って触れた布も、この一部だったのだろう。
「こっちよ」
と、アオの声が、すぐ前から聞こえてきた。明滅を繰り返す光の中で、彼女の姿が淡く浮かび上がっている。
迷ったことに気づかれたのかと身じろぐと、彼女はそれもお見通しという風に、くす、と笑い声を漏らした。
そのまま振り向いて歩き出したアオについて行く。ある一点の角に辿り着くと、そこにあった布を、アオは遠慮なく捲った。
「おい……?」
しかし、布の先には、先程よりもずっと明るい――といってもかなり薄暗いが――別の空間があった。
まばらに置かれたテーブルセットが五つ、そのうちの一つは使われている。二人の女性がティーカップを片手に談笑していた。
奥のカウンターにはエプロンを着けた男性の姿が見える。
どうやらここが、入口で案内のあったカフェスペースのようだ。
「……どうして出口がわかったんだ?」
フジサキが心底驚きながら問いかけると、アオはゆら、と辺りに視線を漂わせた。それからフジサキに視線を戻し、にこりと笑う。
「先に飲み物を頼みましょう。……チケットは? 私が行ってくるわ」
ポケットの中に入れていたドリンクチケットを渡すと、彼女は弾むような足取りでカウンターへ向かった。フジサキはその間に、二人組のテーブルから離れたところに席を取る。
(ここは、森がテーマなのか)
先の展示スペースと同じように、ここでも光のホログラムが使われている。
壁や床、テーブルに描かれた木々や草花の間を、リスや蝶、穏やかな風までもが通り抜けていく。天井から降り注ぐ木漏れ日は、まるで本物さながらだ。
アオはすぐに戻ってきた。
「お待たせ」
コト、とテーブルにグラスが置かれる。添えられたストローを差しながら、フジサキはずいと身を乗り出した。
「あぁ、ありがとう。……で?」
「そうね……。どちらかと言うと、私が出口に気づいた理由というより、フジサキが気づけなかった理由なのだけど」
「俺が?」
「だってそうでしょう? 彼女たちもここへ来られているのだから」
そう言って一瞬、アオは二人の女性が座っている方に目を遣った。フジサキは憮然とした表情で「あぁ……」と声を漏らす。
「音よ」
「音……?」
「そう。フジサキにも聞こえているはず」
アオはひと口、コーヒーを飲んで、緩く広げた両手の指をテーブルに乗せた。軽く叩くような仕草は、ピアノの鍵盤に触れているようだった。
トン、タタン、とテーブルの鳴るリズムが耳によく馴染む。
心なしか、周囲の光が強まったように感じた。
……同時に、理解する。
「人間の可聴域ぎりぎり、なのでしょうね」
ずっと、聞こえていたのだ。
「私、耳が良いのよ。とってもね」
指先から零れるリズムが、この空間を満たす何かと混じる。
――トン、タタン、タトトン。
アオがカウンターへ向かった時の足取りも、このリズムではなかったか……?
次第に、何かの――その音の、輪郭が浮かび上がってくる。
アオに聞こえていた音を、フジサキも聞いていたのだ。
だから、気づかずに発動していた能力が、彼の視界を曖昧にしていた。息を吐いて、辺りを見回してみる。
どこまでが能力で、どこまでが実際に存在する景色なのか、わからなかった。
「アオは、さっきの部屋で、いや、この部屋でも……何を見ている?」
「何を? そうねぇ……」
どう言えば良いかしら、と悩み始めたアオを、しかし、フジサキは止めた。
「……いや。やっぱり、良い」
「え? 何よ、言うわよ」
フジサキは、自分が着ているポロシャツを指でつまんだ。
「この服は何色だ?」
「えっと……? 紺、だったわよね? 今はその、黒く見えるけれど」
「そう、紺色だ。今は黒っぽい。同じ色に見えている、と、言うことはできる」
「……えぇ」
何の話だろうかと首を傾げたアオに、けれども、同じように見えていると言うことはできないのだと、フジサキは語る。
「極端な話、俺にとっての紺が、アオにとってのピンクだなんて可能性もあるんだよ。言葉というのはそんなのお構いなしだ。見ている対象自体は同じだから、わかりやすいところで区切って名前を付けている。この波長の光をこれだけ反射しているから、これは赤だ、とかな。……まぁ、でも。結局俺たちは同じものを見ていて、その見え方に多少の違いはあるけれど、それだけの話なんだよな。だからわざわざ言葉で表す必要はないんじゃないか、って」
これは、人による感じ方の違いの話と、言葉の有限性に関する話が混ざっている。フジサキはそれを自覚しているが、アオもまた、そのことに気づいたようだ。
「あら、曖昧ね」
「この話は、まだ俺の中で答えが出ていないんだよ」
勘弁してくれ、とフジサキは苦い笑みを溢すと、アオは、あはっ、と軽く吹き出した。
「つまりフジサキは、世界が小さく――簡単になってしまうことが、気に食わないのね」
「……どうしてそう思う?」
「スタジオで、時間の話をしたことがあったでしょう? 時間は続いているものだと言っていたじゃない」
アオは、ストローで氷をかき混ぜている。リズム良くカンカランとなる音が、フジサキの視界に入り込む。
「それにほら。私も一応、詩を書くから。そういう、切り取り切れない世界、みたいなものは結構感じるの」
展示室を出た二人は、そのまま駅へ向かい、南口へ通り抜けた。
丁度、阿佐ヶ谷七夕まつりが開催されていたのだ。
アオ自身は毎年来ているらしく、彼女に誘われるままフジサキもついて来たが、その混雑具合に、彼は軽く眉を顰める。
「人混みは苦手?」
「まぁ、得意ではないな。祭は好きだし、あの装飾も気になるから、問題はないが」
「ふふ、凄いでしょう? アーケードの中も、ずっと続いているのよ」
二人の視線の先には、商店街の入り口、大きなくす玉飾りがあった。
人の流れに合わせて中へ入ると、アオの言う通り、天井や店の二階から吊るされた七夕飾りが奥の方まで続いているようだった。特に目を引くのは、様々なキャラクターを模したと思われる張りぼてだ。
店頭で食べ物を販売しているところもあったが、フジサキにはこの人混みをかき分けて端まで移動するのが難しそうに思えた。
商店街の中程まで来た辺りで、小さな十字路に入り、ほっと息をつく。
「アオちゃん……?」
と、明らかにこちらへ向けられた声。顔を上げると、そこには二人の男女が立っていた。
男性は全身黒ずくめで、声を発したと思われる女性は小柄なアオよりさらに小さい。そんな印象的な雰囲気の彼らは、サングラスを掛けていて、その顔は見えなかった。
ひゅっと息を吸い込む音が聞こえた。アオには、彼らが何者かわかったのだろう。
「アカネと、クロ……? そんな、どうして」
彼女はひどく驚いているようだった。口にした名前が本当なら、この二人はCOLORFULのメンバーだということになる。
(COLORFUL? 忘れられているのではなかったのか……?)
戸惑うアオをよそに、アカネと呼ばれた女性はアオの手を引いて路地裏に入る。
人目につかなくなったことを確認すると、クロと呼ばれた男性は掛けていたサングラスを外した。そこにあったのは、芸能ニュースに疎いフジサキでも知っている、COLORFULのギタリスト・クロの顔だった。彼の形の良い唇が、綺麗な弧を描く。
「じゃあ、あたしはあの辺にいるから……えっと、あなたも一緒に」
ちょんとシャツの裾を引かれて振り向くと、路地の入り口まで戻ろうとするアカネ。
「え……?」
「ちょっとだけ、二人にしてあげたいんです」
「あ、あぁ」
少なからずフジサキも混乱していて、そのような頭では碌な反応もできなかった。こくりと頷き、彼女の後について行く。
それでも、置いて行って大丈夫だろうかと、何とかフジサキは振り返ることができた。
振り返る余裕もない方が良かったかもしれない。
暗がりに佇む人影。
見上げるアオの頬に手を当て、そこへ覆い被さるように顔を寄せていくクロの姿が見えた。
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