第21話 グラスに付いた水滴

 その歌声が耳の奥へ届くと、脳内からが抜け落ちた。

 確かにそこにあったはずのそれが、少しの違和感もなく手をすり抜けて、次の瞬間、何事もなかったかのように戻ってくる。


 コンマ一秒にも満たない中で行われる、記憶の喪失と蘇活。


 アオの歌を聞いたトウカの脳は、必ずこの過程を辿る。忘れた瞬間に思い出すため、本人がそれを意識することはない。


 とはいえ、変化がないというわけではない。知る情報は増えている。


 情報に際限はなかった。名前や年齢、住んでいる場所などの個人情報から、友人関係、趣味、果てはうたっているときの状態まで。それら全てが文字列として脳に刻まれる。

 到底、ひとりで処理できるような量ではない。


 トウカは歌を聞くたびに、その奔流に苦しんだ。できるだけ歌声を耳に入れないことと、飽和した言葉をすぐに吐き出すことで、なんとか精神を保っている。


 そういう意味で、アオの歌は良かった。

 アオの歌声であれば、能力の発動前後で変化が少ない。抜けた記憶を埋めるように情報が流れてくるため、脳への負担も減るのだ。

 そして何より、溢れる情報がトウカの好みに合っている。

 新たに知るアオは、歌とともに流れ込んでくる彼女の感情は、いつでもトウカに優しい。


 過剰な情報を受け取った脳は自動的に、優先する情報を選ぶこととなる。

 彼女にとって――いや、大半の人間にとって瞬時に理解できる情報。それは心の情報だ。


 トウカは、うたっている人間の感情に影響を受けすぎる。それでも。


(アオの歌になら……)


 いくらでも自分の心を揺らすことができる。揺らしたい。

 そう思えるほどに、アオの感情は心地が良いのだ。


 うたうことが大好きで、いつだって希望を見せ続けてきたアオ。

 それは自分のためでもあり、誰かのためでもある。そのバランスが、良かった。


 部屋の中、投げ出した両足が冷えている。

 前屈の要領で手を伸ばしたトウカは、ローテーブルの上からリモコンを取った。

 ピピッ、ピピッ、と電子音が鳴り、二度だけ上がる設定温度。


 グラスに少しだけ残った麦茶は、氷が溶けて、ごく薄く茶色がかっている。もう入れ替えてしまおうかと、トウカは立ち上がった。


 ――と、グラスの横にあった携帯電話が、通知を表示する。さっと目を通すと、インターホンと連動したアプリケーションのものであるとわかる。慌ててヘッドホンを外した。


 ピーンポーン。

 おそらく、二回目のチャイム音。トウカは玄関へ向かった。一階であるのを良いことに、どたどたと足音を鳴らしながら。


「アオ!」


 覗き窓から予想通りの人物が見えることを確認する。ドアを開けると、僅かに頭を傾けたアオが、にこりと笑った。


「こんにちは、トウカ」

「うん、いらっしゃい。上がって!」

「お邪魔します」


 丁寧にサンダルを揃えて、アオは部屋に上がる。同時に、トウカが手に取ったグラスを見て、ふっと目尻を下げた。


「トウカ、これ」


 そう言って渡されたコンビニの袋を受け取り、反射的に「わ、ありがとー」と答えるトウカ。一拍遅れてから、自分が持っていた物を取られていることに気づく。


「……あれ?」

「入れ替えるのでしょう? 私も欲しいから」


 アオは勝手知ったるといった様子で、薄まりすぎた麦茶をシンクに流し、水切りラックから自分が使うグラスを選び、冷蔵庫で冷やしていた麦茶のボトルを取り出した。

 しょっちゅう遊びに来るようになったこの友人の姿に、トウカは頬が緩むのを止められなかった。何だかこそばゆい気持ちになりながら、アオに渡された袋の中身を見てみる。

 頼んでいたヨーグルトと、生クリームと――


「あっ、ポッキンアイスだ!」

「え?」

「これ好きなんだよね。言ったっけ?」


 訝しげに振り向いたアオに袋から取り出したそれを見せると、彼女は「あぁそれ」と口の端を持ち上げた。


「トウカはポッキンアイスと言うのね」

「え、違うの? アオは何て言うの?」

「……それは秘密」


 悪戯っ子のように瞳を光らせたアオに文句など言えるはずもなく、「ヒドいなぁ、もう」と呟いた声は自分でもわかるほどに弾んでいる。それでも頬を膨らませながら“ポッキンアイス”を冷凍庫にしまっていると、突然、ふしゅっと空気が抜けた。


「凍ったら、一緒に食べましょう」


 人差し指をくるくると回しながら、アオが朗らかに言った。


「……今日は無理だと思うよ?」

「わかっているわよ」




 それからひと息ついた二人は、狭いキッチンで横に並び、カレーを作り始めた。

 夏野菜をたっぷり使ったチキンカレー。

 トマトも、ナスもピーマンも、すべてトウカの実家から送られてきたという。夏休みに入ってからダンボール箱が増えた。さすがに一人では食べ切れないということで、アオが呼ばれたのだ。


「アオはさ、ポッキンアイスを割るの、得意?」

「あれに得意不得意があるかしら」


 玉ねぎを炒める手を止めずに、アオは首だけ傾げる。


「あるよぅ! 繋ぎ目のところがさ、びよんって伸びて、切れないの」

「なるほど」

「ポッキンアイスなんだから、もっとこう、ポキッてやりたいんだけど」


 トウカはわざわざ包丁を置いて、ポキッと折るようなジェスチャーをした。……何故か、得意げな顔だ。

 何でもないことを、彼女はいつもこうして楽しそうに話す。口には出さないが、アオはそれを好ましく思っている。


「あぁいうのは勢いが大事なのよ。……トウカ、気合入れるために深呼吸でもしてるでしょう」

「うぅっ、正解だよ……なんでわかるの……」

「ほら、そろそろお肉も炒めたいから、早く野菜を終わらせて頂戴」


 はぁと溜め息をつきながら、トウカは野菜を切る作業に戻る。それからすぐに手を止めて、じとっとした目をアオに向けた。


「じゃあ、そういうアオさんは、どうなんですかぁ?」

「私? 私はハサミを使うわよ」


 邪道だ、と大げさに嘆くトウカ。

 途中で何度も手を止める彼女を急かしつつ、アオは手際よく料理を進めていく。


 出来上がったカレーは、賑やかで、楽しい味がした。

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