第19話 始めるための音
昨日の話を受けて、各々は学祭に向けて曲作りを始めた。会長がメインステージの概要を持ち帰ってくるまでは展示用の曲を進めることになったのだ。久し振り――といっても一週間程度だが――にサー室内に楽器の音が響く。
実のところ、フジサキは少し前に着手していた。去年の学祭を経験したことで思いついた、試したいことがあったからだ。
「……アオ」
鞄から携帯電話を取り出し、アオを手招きする。呼ばれた彼女はすぐにギターを弾いていた手を止め、横のスタンドに立てかけた。
「何かしら」
近づいて来たアオをピアノの椅子に座らせて、携帯電話を見せる。
「展示用の曲でひとつ、アオに主旋律を考えてもらいたいんだ。……できればこの調で」
そう言って、保存していたトラックを再生する。少し流したところで反応を窺うと、アオもフジサキを見ていた。
「楽しそうだし、構わないけれど……。フジサキはどんな景色を見たいの? もしくは、どんな感情が欲しい?」
はっとする。それはまさに、フジサキが求めていた考え方だった。
楽譜の詰まったキャリングケースから、クリアファイルを取り出して、アオに手渡す。
「これ、フジサキが描いたの?」
そこには、一枚の絵が挟まっている。淡く薄めた絵具で描いた、風景画。
「あぁ」
「綺麗ね。あと……少し意外だわ」
「そうか? 俺は芸術全般が好きだぞ」
「それは知ってるけれど」
絵画は、音楽の次に触れる機会が多い。鑑賞だけでなく、能力で見た景色を描いておくこともあるのだ。
今回やろうと思っていたのは、フジサキ自身の能力を利用した、ちょっとした実験のような作曲である。
フジサキがイメージの元となる絵を描き、そこから連想した旋律をアオが考える。その旋律を聞いて見えた景色を、また絵に描く。そうしてできあがった曲と二枚の絵を並べるのだ。
簡単な説明を終えると、アオは感心した様子で微笑んでいた。
「……とても面白いと思うわ。良ければ、もう少し突っ込んで協力したいくらい」
「と、言うと?」
「たとえばだけどね、感情ごとに主旋律をいくつか作って、それぞれで見えた景色を描くの。イメージ――テーマは同じなのに、感情によって変わる音楽。素敵じゃない?」
それからアオは、複数のテーマを同じ感情でそれぞれ表現してみたり、展示を見に来た人が参加できるよう紐づけクイズにしてみたりしてはどうかと提案した。
「音から景色が見える能力があるなら、その反対もありそうよね。統計を取ってみたら、岸さんが飛びついてきそう。……研究者として」
「それを言うなら、俺にとっても興味深いな」
展示としての思いつきは去年の学祭を経験したことがきっかけだったが、そもそもこの作曲を思いついたのは、音楽に対する、最近の興味が元になっている。
フジサキが最も好ましく思っているのは、ロマン派と呼ばれる、十九世紀ヨーロッパで展開された音楽だ。
作曲家ごとに異なる豊かな情緒を含んだそれらの曲は、鑑賞するにしても、自身で演奏するにしても、素晴らしい景色を見させてくれる。親の影響もあり、中学へ上がる前には、どっぷりとクラシック音楽にはまっていた。
しかし彼は同時に、作曲にも手を出すようになっていた。
能力によって数えきれないほどの景色を見てきたが、衝撃的な印象を残した曲は少ない。先人たちが残した音楽は確かに素晴らしい。それでもフジサキは、どこか物足りなさを感じていたのだ。
クラシックの流れを汲んだ現代のそれを、現代音楽という。フジサキが作曲したものも、ジャンルとしてはそこに入る。しかし……。
「俺は、現代の標題音楽をやりたいんだ」
「標題音楽?」
現代音楽はしばしば「難解である」と評される。それもそのはずだ。不協和音を多用したり、拍子を崩したりするような曲は、一般人には耳馴染みが悪い。
フジサキとしてはそういった前衛的で遊び心のある技法も面白いと思っているし、実際に取り入れた曲を作ったこともある。それでも、本当にやりたい音楽とは異なる。もっと、音楽の可能性を広げたいのだ。
「俺の能力みたいな現象を引き起こすことを意図した音楽、だな」
実際の説明とは少しずれているが、やりたい音楽という観点ではこの説明が一番近い。そしてこれが能力の発動の原因でもあるとも、自覚している。
過去でも、空想の中でもなく、今ここに生きている人間の感情を大事にしたい。そういう音楽を、フジサキは作りたかった。
(そこにはアオ、あんたも含まれてるんだが……)
――アオは選択されない。
そのことが悔しくて、柄にもなく気分が沈む。悟られないようピアノをそのまま譲り、フジサキは気分転換に外へ出ることにした。
夏休みとはいえ、キャンパス内はそれなりに賑わっている。フジサキは強い日差しが照りつける下を適当にぶらついていた。
最近はずっと聞いている、アオの作った曲。
心地良い旋律、飽きない景色。
彼女の曲はポップスが主だが、その本質はフジサキのやりたい音楽とそう変わらないように感じられる。そのことが素直に嬉しく思えた。同時に、既に辿り着いているアオが羨ましい、とも。
(……そうか。アオの歌と能力の組み合わせは、性質が悪すぎるんだ)
不思議だった。
アオが世間にその存在を忘れられるまでに、一年程の時間があったと聞いていた。その間に違和感を覚える人はいなかったのだろうかと。……しかし、きっとそういう問題ではないのだ。
今まさにアオの曲を、アオの旋律を聞き続けている自分に苦い笑みを溢す。これが彼女の声で紡がれたら、その引力は何倍にも膨れ上がるはずだ。
なんという悪循環だろう。フジサキはそう思った。
ずっと聞いていられるから、聞いていたくなるから、忘れるまで彼女の歌を聞き続けてしまう。
魅力的な旋律が生み出したその流れは、アオの能力とともに姿を変えて――。
と、フジサキの視界に、やけに主張の激しい人影が入り込んだ。喫煙所の横を通ったところだったらしく、視線を向けると、見知った男子学生が煙草を持つ手を振っている。
「よっ、フジサキ」
「あぁ」
彼は哲学科の友人だ。フジサキがイヤホンを外しながら近づくと、隣に座れという風にベンチの空いた場所を示した。
「珍しいね、サークル?」
「学祭の準備があるからな」
「あー、去年も忙しそうだった。俺らはまだ先って感じかな。その前にもライブがあるし」
そして軽音楽サークルに所属している、音楽好きの友人でもある。
哲学科にはバンドをやっている人間が結構いて、彼らはフジサキが音楽好きだとわかると途端に距離を詰めてくるようになった。
個性的な見た目は近寄りがたいと思っていたし、やたらと馴れ馴れしくしてくるのには戸惑いもあったが、話してみると、案外普通の学生だ。悪い奴らではないことはすぐにわかった。
今ではフジサキから話しかけることも多い。
「ライブって、この前もやってただろ……。あんたらの方が忙しそうだ」
「別に、コピバンだし。そうでもないよ」
そう言って、本当に何でもないことのように笑う。
丁度良いと思い、フジサキは試しにアオの曲を聞かせてみることにした。
スピーカーに切り替えて再生すると、友人は煙草を咥えながら、最後まで何も言わずに耳を傾ける。
ふぅ、と息を大きく吐いた彼の口から、ほんの少しだけ煙が洩れた。
「あんま聞かないジャンルだけど、良いメロだな。フジサキが作ったの?」
「いや、うちの新入生だ」
「……すげぇ」
最後の吐息は、どうやら、感心の溜め息だったらしい。
「褒められたと伝えておく。きっと喜ぶぞ」
「それなら直接言うわ。学祭、また展示もやるんだろ? 聞きに行くよ」
「あぁ、そうだな。待ってる」
それから後期の講義について話を少しして、フジサキは喫煙所を出た。
会長もそろそろ戻る頃だろう。
フジサキは、自分の胸が高鳴っているのを感じた。
それは期待や切なさ、使命感が複雑に入り混じっていて、そして、面白いほどに単純な音だった。
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