第17話 ほんとうの言葉

 大きめの雨粒が、ぼとぼととビニール傘に落ちては弾かれている。アオは手に持った傘の柄を、少し強めに握りしめた。

 今日の講義は午前中で終わりだ。もう帰るつもりでキャンパスを歩いていたが、彼女はふと、本館の方へ行き先を変えた。少し遠回りだが、裏からでも駐輪場へは行ける。見たいものがあったのだ。


 道の脇に設置された掲示板。

 他の場所に貼られている新歓関係の掲示物は、既に剥がされている。サー室の扉に貼っていたポスターも、五月の連休明けには会長がトウカに睨まれながら剥がしていた。

 しかし、ここに貼られた作曲サークルのポスターはそのままだ。他の貼り紙よりはよほど綺麗だが、二か月ほど前に見た時よりもずっとくたびれている。……あの日トウカに渡されたポスターは、アオがサークルに入ってすぐ、貼り直しに来たのだ。


 雨の音だけが聞こえている。

 久し振りの喪失感を持て余すかと思っていたが、意外にも、アオは一週間を普段通りに過ごすことができていた。

 それはこれまでとは違い、諦めに似た感情に埋め尽くされているから。


 うたいたいという、アオの本質ともいえる欲望、そして、自分の能力。

 この二つがある限り、アオは社会から外れるという運命に抗うことができない。


(私と同じね……きっと、忘れられてしまったんだわ)


 濡れることも気にせず、ポエムが書かれた箇所をなぞる。

 この場所だけ、違う時間が流れているように思えた。


「アオ!」


 と、ペタペタと水の跳ねる音と、アオを呼ぶ声が近づいてきた。

 振り向かなくてもわかる。それは聞き慣れた声で、そして、自分に向けられるはずのない声だった。


「……どうして」


 覚えているの。そこまで口にすることはできなかった。口止めしたはずの岸が、アオを気遣って指示したのかもしれない。その答えを知ることが怖かった。

 それなのに彼女は、トウカは、当たり前だという風にアオの手を引いて振り向かせる。


「アオが言ってたんじゃん。能力が意図しない動きをするなら……?」

「……。……トウカの、能力なの?」


 目が合うと、トウカは悪戯がバレたときのような笑みを浮かべた。


「そうだよ。〈受動型〉の、人の歌声を聞いたときに発動する能力。うたっている人の情報が、思いが、脳になだれ込んでくるの。アオがうたえば、忘れちゃうけど、アオのことを知ることができる」

「それは……!」


 忘れたことを知ることができる能力。

 それはつまり、忘れたことを思い出せるということ。アオのことを忘れないでいられる能力だ。


「能力って、相性があるんだって。岸さんが言ってた。多分ね、アオの能力より、わたしの能力の方が強いんだよ」


 トウカの能力が初めて発動したのは、大学に入る直前だったという。そのため、色々な場所でアオの歌が流れていたときは、周りと同じようにアオのことを忘れていった。トウカが能力を発動してからアオの歌が流されなくなるまでの期間も少しあったが、流れるのはほんのたまにであり、トウカは能力が発動させないために対処するようになっていた。

 要するに、人の歌を聞かないようにしていた。


 作曲サークルのポスターを見ながら歌をうたう人がいるなど、誰が想像するだろうか。トウカは勧誘のために、自分を守るヘッドホンを外しただけだ。

 人気のない校舎の裏側であれば、喧騒に混じる歌声も聞こえてこないから。


 あの日、あのような形で二人が出会ったことは、トウカがアオの歌を聞いたことは、本当に偶然なのだ。


「この能力は今まで、苦しいものでしかなかった。言葉が溢れて止まらなくなるから。わたしの馬鹿な頭では、その人の思いを消化できないから」


 でも、アオの歌は違ったんだよ。そう言ってへにゃりと崩したトウカの笑顔に、アオは、何と言葉を返したらいいのか、わからなかった。




「ねぇ、これで歌を作って、うたって欲しいな」


 傘を持つ手で一緒に掴んでいたノートを開き、アオに手渡す。恐る恐る受け取った彼女は、ゆっくりと書かれている言葉を読み、まるで息を整えるかのように深い呼吸を繰り返した。


「……綺麗な言葉ね。トウカの言葉は、いつも綺麗だけど。これは何だか……ほんとうの言葉、っていう感じがするわ」


 それはトウカが今まで褒められてきた中で、一番嬉しい言葉だった。大きく跳ねた心臓を無視して、トウカは言うべきことを言う。


「先週、アオの歌を聞いて出てきた言葉だよ。わたしの詩はいつも、たまたま聞いた歌から作られるの」


 アオが驚いたように目を見開く。

 そのように驚くことではない。うたっている彼女の思いが、トウカにはとても心地良かった。


 有名人のアオを思い出した衝撃よりも、歌そのものを聞いていたいと思えるほどに。

 吐き気がするほどに恨みのこもった歌声を、簡単に頭の隅へ追いやってしまえるほどに。


(アオは、いつも誰かのためにうたってきたんだね。だからあんなに優しいメロディなんだ)


 アオはトウカの言葉をほんとうの言葉だと表現したが、それは、アオの歌が本物だったからだ。そこに込められた思いが、トウカの心をここまで揺らしたのだ。


「アオ。わたしたちは、一緒にいるべきなんだよ」


 そのために、互いの能力を使えば良いと思った。

 超感覚ではない、純粋な、歌と言葉の力を。


「わたしの能力は、それに耐えられる」

「私はともかく、トウカは……」

「良いの! わたしだけがアオの歌を独り占めできるんだから!」


 吉祥寺へ二人で遊びに行った日、気づいたらホテルのベッドに寝かされていた。

 荷物が置かれた椅子の背もたれには新品のビニール傘がかけられていて、簡易テーブルの上にはメモ書きがあった。アオを忘れたトウカが混乱しないように、あくまでも他人の親切として書かれた内容。締めには、「お大事に」という文字。


「お大事にって、何、もう……アオの馬鹿……」


 歌に始まり、ここまで運んでくれたこと、メモ書きから読み取れる気遣い。そのどれもに、アオの心がこもっている。


 アオが喜ぶなら、どんなお返しだってできると思った。そのために今トウカができることは、我儘を言うことだ。


「わたし、嘘ついてた。本当はね、インストバンドってそんなに好きじゃない。人がうたってるのを聞くほうがずっと好き。……これからは、アオの歌だけを聞いていたいな」


 ちらちらと、アオはノートの文字を目で追っている。彼女はきっと、うたいたいのだ。

 好きなことを隠していたトウカには、それがわかった。

 彼女がうたいたいと思えるような言葉を書ける自分が、誇らしかった。


「……そんなの、飽きるでしょう」

「飽きないよ! わたし、アオのことなら何でも知りたい」


 そう言うと、アオはぱっと顔を上げてこちらを見て、それから恥ずかしそうに目を逸らした。


「だから、うたって? ね?」


 逸らされた視線の先に入り込むように、トウカは顔を覗き込んだ。しばらくそうしていると、アオは、観念したように溜め息をつく。


「オーケー。……私も本当は、うたうことが好き。大好きよ」

「うん、知ってるよ」


 満面の笑みを向けるトウカに対して、アオは薄く笑った。

 しかしそれは、優しさに満ちた笑顔だった。


 そして、息を吸って――――。

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