第16話 雨に溶ける
水曜日。
昨晩から降りはじめた雨は、これからしばらく続くらしい。梅雨入りだ。
フジサキはピアノを弾いていた手を止め、窓の外を見る。雲で覆われていてわからないが、日没時間が近いはずだ。
今サー室にいるのはフジサキ一人。先程までいた会長と岸は、午後六時を過ぎたあたりで帰ってしまった。
アオとトウカに至っては、今日は一度も顔を見せていない。珍しい、というより、アオが作曲サークルに入ってからは初めてのことのように思う。
(まぁ、毎日来なきゃいけないわけではないからな……)
それでも何となく落ち着かない気分で、フジサキはこんな時間までサー室にいたのだ。しかし、このまま待っていても二人は来ないだろうし、鍵の返却時間も過ぎてしまう。そろそろ帰り支度をすることにした。
木曜日。
フジサキがサー室を訪れると、会長がいつものソファに座って携帯電話を弄っていた。濡れた傘を、開いたまま入口付近の傘立てに立てる。
「トウカ、具合が悪かったらしいよ。さっきメッセージが来てた」
「そうか。風邪か?」
「そこまでは聞いてない。……あー、そういえば、昨日の講義出てなかった気がする」
被ってる講義が多くて逆に気づかなかった、と言う会長の後ろを通り、フジサキはピアノの椅子に座る。
「アオは?」
「……さぁ? 今まで毎日来てたから珍しいだけで、来ない日があってもおかしくないでしょ」
会長は昨日の自分と同じ考えのようで、フジサキは「そうだな」、と納得した。
金曜日。
いつもはアオが一番乗りだが、やはり今日も来ていないようだ。フジサキは知らず溜め息をついて、ピアノの蓋を持ち上げた。
相変わらず雨は降っている。梅雨なのだから仕方ないが、どうしても憂鬱な気分になって、再度溜め息をついた。
ふと脳内で旋律が流れ始め、同時に、そのとき見た景色を思い出す。目を閉じれば、陰鬱な梅雨の空は見えなくなり、どこまでも青い空だけを思い浮かべることができた。
流れるような指さばきで、盤面を撫でる。
アオがこのサークルで初めて作った曲だ。一瞬で、メンバー全員を虜にした旋律。
途中で岸が加わり、何かの花の匂いが漂ってきた。しばらく続く二人だけの攻防。そして次に扉が開く音が聞こえた瞬間、フジサキと岸は同時に演奏の手を止めた。
入ってきたのは、会長だった。
「……会長、だけか」
「残念だけど、ね」
どうぞ続けてと手を振る会長に、二人は首を横に振る。それから溜め息をつくところまでぴったりで、フジサキは苦く、岸は愉快そうに笑った。
――ガチャ。
しかし、また扉のレバーが上がり、今度は三人が顔を見合わせる。会長は「知らない」という風にふるふると首を振った。
「お疲れ様でー……」
そう言いながら入ってきたトウカは、自分に向けられた強い視線にたじろぎ、ぴくっと肩を震わせた。それから階段下のスペースに目をやり、「……アオは?」と尋ねてくる。
「一昨日から来てないよ」
「そ、そっかぁ」
トウカは曖昧な表情を浮かべて三人の顔を見回すと、へらっと笑った。
「……そうだ。今日は、ちょっと用事があるから……もう帰らなきゃ」
あからさまに怪しい態度で出ていった彼女に、フジサキは眉を顰める。
「遊びに行った日、何かあったのか?」
「喧嘩、とか」
「うーん、そうは見えなかったけど……。まぁ、女の子はよくわからないところがあるからね、放っておくしかないでしょ」
会長の楽観的な言葉に、フジサキは眉間の皺を更に深めた。
「……それは冷たいんじゃないか?」
「じゃあ無理に聞くの? 話したくなさそうだったのに?」
しかし、その批判はあっさり一蹴される。空調とは関係なく、ひんやりとした空気が流れた。
返す言葉が見つからず、「それは……」と口籠るフジサキに、会長は諭すように続ける。
「聞けないでしょ? 二人とも子供じゃないんだし、助けを求めてきたわけでもない。僕たちが下手に何かする必要はないよ。できるのは待つことだけ」
それは正論だ。しかし、何かが引っかかる。
「ワタらしく、ない」
「そうかな」
そうだ。フジサキもそう思った。優しい性格というわけではないが、今みたいに突き放すようなことはしない。少なくとも、空気が悪くならないように調節できる人だ。
と、会長が大きく息を吐く。
「……ごめん。ちょっと強く言い過ぎたかもね。今日はもう閉めよっか」
その言葉に、二人は頷いた。
月曜飛んで、火曜日。
二限目の講義が早く終わり、フジサキはサー室への道を急いでいた。ぴしゃぴしゃと雨水が跳ねるのも構わず、小走りで三号棟へ向かう。
昨日も二人は来なかったが、金曜日に気まずくなっていた会長とは普通に話せた。そこで岸が、今日の二限はアオと講義が被っているという話をしていたので、何か聞けるのではないかと思ったのだ。
「……フジサキ」
意外にも、先客はトウカだった。テーブルに広げられた荷物を見るに、講義には出ていなかったのだろう。彼女は気まずそうに視線を逸した。
フジサキが何か声をかけようかと悩んでいるうちに、後ろの扉が開く。
手に持っていた傘を立てて道を空けると、入ってきたのは岸と会長だ。彼らも急いで来たのか、息が少し荒い。
「アオに、会った」
「――っ!」
室内の全員が息を呑み、岸の言葉の続きを待つ。彼の視線は、トウカだけに向けられている。
「しばらく休む、って、言ってた。でもそれを、会ったことを、言わないで欲しいと」
岸は一瞬、悔しそうに口を歪めて、また開く。
「でもおれは今、言った。……トウカ。何があった? ……話せ」
「おい岸さん!」
思わず止めに入ったが、岸の目は想像以上に真剣だった。はっとして、フジサキは伸ばしかけていた手を下ろす。
彼の視線の先で、トウカがぎゅっと目を閉じ、そして、深く息を吐いた。
「……わたしの、せいだ。わたしがちゃんと、言わなかったから」
「トウカ?」
「アオの、うたいたくてもうたえない気持ちを理解してるつもりで、また誰かに忘れられたらと怖がるアオに、うたってほしいなんて言えなかった」
……いや、違う。と、トウカは心の中で自分の言葉を否定する。
(わたしはまた、ズルいことをしてる。……怖かったのは、わたしだ)
あの雨の日に大丈夫だったのは、たまたまかもしれない。次にアオの歌を聞いたら、今度こそ忘れてしまうかもしれない。そう思って、アオに本当のことを話せなかった。
「……つまり、うたったんだな。アオは何も知らずに」
フジサキの言葉に、トウカは頷いた。
彼女のために何かをしてあげたいとは思っていたが、うたわせるつもりなど少しもなかった。それなのにアオは、トウカのためにうたった。
そのことを、トウカは知っている。
こんなにも大切になっているアオを忘れてしまうことが怖かった。
忘れたことに気づかない自分が、知らない間にアオを傷つけてしまうことが怖かった。
それなのに、アオは。
忘れられても構わないと。ただひたすらに、トウカの苦しみを和らげるためだけに、うたってくれたのだ。
「それじゃあ駄目なんだって、わかった。わたしはアオに、大好きな歌をうたい続けて欲しい。……何度だって、わたしが思い出すから」
きっとそのために、自分の能力はあるのだ。トウカはそう思った。
「アオを探しに行こう。講義、終わったばかりでしょ? まだ近くにいるはず」
立ち上がったトウカの言葉に、全員が頷いた。
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