第15話 トウカは遊びたい
吉祥寺駅の改札口を出るアオとトウカ。平日の真っ昼間、人はそれほど多くない。
二人は、遊びに来ていた。
いつものようにスタジオのロビーで話している時に、トウカが言い出したのだ。「せっかく女の子が入ってきたんだから、お出掛けしたいよね!」と。
アオはそれに賛成だったが、何故か岸とフジサキは、二人では危ないと猛反対していた。良いじゃないかとむくれていたところを、会長がとりなしてくれたのだ。
結局、夜になる前には帰るということを約束し、アオたちは二人から了承を得た。
午前中にアオの講義が終わる火曜日、トウカは講義をサボることにしたらしい。
サー室で昼食を摂っている間、じとっとした目を向けてくる岸。その視線から逃げるように二人は大学を出た。今日はそのまま帰れるように、アオは自転車ではなく、電車で来ている。
(……まったく、うちの男性陣は過保護すぎるんじゃないかしら)
彼らの様子を思い出して、アオはそんなことを考えた。隣を歩くトウカは少しも気にしていないようであったし、今は、緩みきった頬に喜色を浮かべている。
はぁ、と小さく息を吐いて気持ちを切り替える。
何だかんだ、アオは楽しみにしていたのだ。誰かと遊びに行くのは久し振りだ。それに、友人はあまりいないと言っていたトウカの言葉が本当なら、彼女にとっても良い日になるのだろう、なればいいと思う。
「わたしね、吉祥寺って、もっとオシャレな街だと思ってた」
北口駅前、ロータリーの横を渡りながら、トウカは恥ずかしそうにそう言った。
「こっちに引っ越してから、真っ先に来たんだよ? カフェでランチ食べてー、可愛い雑貨屋さんを覗いてー、って」
意外とごちゃごちゃしててびっくりだよ、と笑う。その視線の先は、商店街だ。
「こちら側はそうね。公園の方がトウカの言ってた感じに近いんじゃないかしら」
南口から少し進んだところにある、井の頭恩賜公園。そこまでの道にはテラス席のあるカフェレストランや、お洒落な古着屋が並んでいたはずだ。トウカが、「そう!」と頷く。
「後から知ってまた来たの。これこれ! って思ったよね」
「駅前すぐのところはあんまり変わらないけれど、大丈夫だったの?」
「大丈夫だった、ふふっ、確かにそうだよね。……あっそうだ、公園!」
「え?」
ふと立ち止まったトウカに目を向けると、彼女は、良いことを思いついたという風に、ぱん、と手を叩いた。
「春になったらさ、お花見しよーよ!」
「……春は過ぎたばかりよ」
「分かってるよぅ。だからさ、アオも覚えててよ。ね?」
今にも計画を立て始めそうなトウカに、アオは「オーケー、だから落ち着いて」と背中を叩く。再び歩き始めるが、しかし、トウカの興奮具合はさほど変わらない。
「新入生が入ってくれたら、ちゃんと場所も取らなきゃだよね」
「その頃には桜も散っているでしょう。場所取りの必要はないわ」
「それお花見じゃないじゃん! ……っていうか……はぁ、そうだったよ」
がっくりと項垂れた様子がおかしくて、アオはトウカから見えないようにクスクスと笑った。しかし、こういうときのトウカは鋭い。もう、と睨んでくる彼女を宥めるように、アオは別の提案をする。
「会長たちを呼んだらどうかしら?」
「来てくれるかなぁ」
「それはトウカのお願い次第、ね」
挑発的に言うと、トウカは真剣な表情で唸りだした。商店街の真ん中で周りを見ていなさそうなので、アオは仕方なく、彼女の手を引くことにする。
何だか妹ができたみたいだ、とアオは思った。
「かいちょーは多分、スタジオを継ぐためにあそこで働くでしょ。岸さんは……」
「研究所、って言っていたわね。土日なら大丈夫なんじゃないかしら」
「あ、アオも知ってるんだ」
どうやらアオには話していないかもしれないと思い、言葉を濁そうとしていたらしい。他人の能力について勝手に話すわけにはいかないから当然だ。
アオは、この前のサー室での出来事を話すことにした。
「たまたま被っている講義があったのよ」
今日もその講義の日だった。昼食時、岸も一緒だったのはそのためだ。
あの日は超感覚学科の話から始まって、岸の能力、それから、就職してどのようなことをしたいのかということも教えてくれた。そこにアオが感じたことも付け加えて話しているのを、トウカはふんふんと聞いている。
途中でアーケードの下から抜ける道へ曲がる。トウカが行きたいと言っていた商業施設はすぐそこだ。
「彼、最後になんて言ったと思う?」
「んー……、『甘いもの、食べるか?』とか?」
「……何、あの人、いつもあぁなの?」
「岸さん、たまに意地悪するんだよね。普段は優しいのに」
ま、そういうところも良いんだけどね。トウカはそう言って、意外なほどに大人びた笑みを見せた。へぇ、とアオが目を見張って――
「――ひぁっ!?」
突然、どこからか男性の歌声が聞こえてきた。
ぐっと引っ張られた腕にアオが視線を向けると、崩れるように座り込むトウカ。慌てて支えようと力を込めた手を、それ以上の力で振り払われる。
「トウカ、どうしたの!」
「あ……ぁ…………」
両手で耳を塞ぎ、ふるふると力なく首を振るトウカ。アオのことなど見えていないかのように、その目は虚ろで、定まることなく視線が宙に浮かぶ。表情は驚きと苦しさに歪み、嗚咽を漏らしている。
歌声はまだ聞こえている。歌詞は聞き取れず、遠くから響いているようなのに、やけにはっきりした音だ。
アオは周囲を見回したが、誰も不思議に思っていないようだった。……自分たちにしか聞こえていないのだろうか。
(もしかして、能力?)
そうだとしても、トウカの表情を見る限り、それが彼女のものでないことは明らかだ。しかし、何故周りの人に影響がないのか、わからない。対象を二人に絞る理由が。
アオがそう考えている間に、トウカは耳を塞ぐことをやめたようで、覚束ない手つきでリュックからノートとペンを取り出した。地面に広げて、物凄い勢いで何かを書き始める。
「……っ!」
ノートを覗き見た瞬間、アオの両腕に鳥肌が立った。
それは恐怖心だった。サー室にある、トウカが書き溜めていた詩は勿論、今までアオが読んできたどの本にもなかったような、おぞましい言葉の羅列。
綺麗で、純粋な言葉を書くことができるトウカ。彼女が負の感情に支配されれば、それは純粋に心を抉りにくる言葉へと変わるのだ。戦慄が走る。アオがこのような恐怖を感じるのは、初めてのことだった。
それなのに、同時に湧き上がってくるのは「この言葉をうたいたい」、という欲望と、そのための旋律。アオはそれを必死に振り払う。
トウカの書く手は止まらない。何度もページをめくり、その余白が次々と埋められていく。その額に、暑さだけが理由ではない汗が浮かぶのを見て、アオは焦った。
……自分にできることは、何もないのだろうか?
恐怖心と、湧き上がる旋律と、誰かの歌声。
腹の底がぐるぐると震えている。それが逆に、アオを冷静にさせた。
(……あるじゃない。私にも、できることが)
考えるまでもない、簡単なことだった。何故ならアオは、今までずっと、そうしてきたのだから。
誰かの悲しみに寄り添うように、誰かの希望を照らすように。そうやって、今までうたってきた。
目の前に苦しんでいる人がいるのなら、それが大事な友人なら、なおさらだ。
うたった場合の未来と、うたわなかった場合の未来。選ぶのは、一瞬よりも短い時間で。
「さようなら……トウカ」
そうしてアオは、うたい始めた。おぞましい言葉に囲まれて、苦しんでいるトウカを救うために。
往来でいきなりうたい出す変人と思われても、次の瞬間には忘れ去られる。大きな声でうたったって、平気だ。それに、仮に能力がなくて視線が集まったとしても、構うものか。そう思った。
(私には、その力があるのだから)
能力など関係なかった。アオは歌の力を、自分の歌を、信じていた。
誰かに、光をもたらすための力を。
商店街の中、立ち並ぶ店の壁に反射して、アオの声が響く。
「――。――」
少しずつトウカの表情が穏やかに、ノートに書きつける手は緩やかになっていき、やがて、彼女は意識を手放した。
そのまま眠ってしまった彼女を見下ろし、アオは、ほぅ、と息を吐いた。
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