第14話 涼しい風と長話

 講義を終えたフジサキがサー室に寄ると、すでに三人の先客がいた。


 アオは、自分にとって居心地の良い空間を見つけたらしい。ここ最近は、階段下の狭いスペースをよく陣取っている。

 壁に掛かっていたエレキギターを下ろし、今日もトウカのノート――棚にある、去年書き溜めていたもの――を見ながら、何やらフレーズを弾いている。


 岸はいつも通りパーカッションコーナー。イヤホンをつけて、音楽を聞いているようだ。

 微かに甘い匂いがして、先程までは何か叩いていたのだろうとフジサキは推測した。女子二人の顔が、心なしかふてくされているように見える。


(……というか)


「暑くないか?」


 フジサキがそう声をかけると、トウカが真っ先に反応する。首をぶんぶんと縦に振り、座っているソファを揺らした。


「だろうな。……アオ、そこに空調のスイッチがあるんだ。入れてくれ」

「オーケー。これね?」


 もうすぐ梅雨だ。朝晩はまだ過ごしやすいと言えるが、昼間の日差しはもとより、蒸し暑さも、完全に夏のものとなっている。


 スイッチを入れると、天井の吹き出し口から冷たい空気が降りてくる。窓を閉めるため、トウカが立ち上がった。

 若干湿気のこもった室内は、すぐに涼しくなるだろう。


「アオって、よく『オーケー』って言うよね」


 そういえばさ、と窓の鍵を閉めながら、トウカはそう切り出した。いつの間にかヘッドホンを外していた岸も、「確かに」と相槌を打っている。

 フジサキもピアノの椅子に座りながら頷いた。


「癖なのよ」

「何か、京王線みたいだね。オーケー、ケーオー! ってさ」


 トウカの冗談にフジサキと岸は眉ひとつ動かさなかったが、アオは小さく首を振る。


「関係ないわ。京王線なんて、大学に入ってから初めて使ったもの」

「あれ、家この辺じゃないの?」

「チャリで来てる」

「荻窪なのよ。中央線しか使わないわ」


 荻窪と聞き、フジサキは頭の中に地図を思い浮かべる。アオの家がどの辺りかは知らないが、単純にここから荻窪までなら、環状八号線でほとんど一本道だ。

 新宿経由は混雑するだろうし、吉祥寺経由は乗り換えが面倒だろう。確かに自転車が楽なように思える、が……。


「あの辺りって、道が狭くないか?」

「……良く知ってるわね」

「俺の家は用賀だからな」

「なるほど」

「え、どういうこと?」


 フジサキが道を知っていることと彼の家が用賀であることが繋がらなかったのか、トウカが首を傾げた。トウカの反応は、やはり、アオが拾う。


「スタジオに行く時に渡る、大きな道路があるでしょう? 甲州街道と交差している」

「環八でしょ? 知ってるよ」

「そう。あの道を南に少し行くと、用賀に着くのよ」


 なるほど、とトウカが納得する横で、説明したアオは表情を曇らせる。


「でもこれからは大変そう。梅雨だし、明けても、しばらくは暑いでしょうから」

「えっ、この後もチャリなの? やめなよ」

「危険」

「大丈夫よ。それに、上下のカッパも用意してあるの」


 この前の深夜のスタジオの時もそうだったが、アオは少し危機感が薄い気がするとフジサキは思った。しかし、どうしても最後のアオの言葉に意識がいってしまう。


(……上下のカッパ、か)


 何となく想像できなくて、少し見てみたいものだと――


「フジサキ。今、変な想像したでしょう?」

「いや、笑ってはいないぞ」


 そもそも想像ができなかったのだ、と思ったが、同時に自分の失言に気づくフジサキ。


「ほらやっぱり」

「いや……」


 じとっ、と睨んでくる彼女にこれ以上何を言っても無駄だと思い、せめてもと視線だけ逸らす。と、不思議そうな顔でアオを見つめるトウカが目に入った。


「アオって、意外と庶民的だよね」

「え?」

「わたしの勝手な印象だけどさ、何か、有名人の気取った感じがないっていうか……」

「そうかしら?」


 それはフジサキも感じていた。

 彼自身、両親に連れられて観に行ったコンサートや芝居で、いわゆる“有名人”と言われるような人を間近に見たことがある。中には親が懇意にしている者もいたが、その誰もが壁の様なものを持っていたことは疑いようがなかった。

 その点、アオには初めから壁が無い。トウカはアオのことに気づいていて、それを彼女は知っていたらしいが、普通に接していた。

 纏う空気が普通の女の子と異なるのは事実だが、それは元の性格からきているような気がするのだ。


 三人の視線を向けられたアオは、考えるように抱えたギターを見下ろしていたが、やがて、ポロロンと親指で弦を撫でた。




「そうね……自分たちが有名人だっていう意識は、あんまり無かったかも。あのバンドは、全員が幼馴染だったから」

「幼馴染? すごい! みんなあの辺に住んでるの? ……って、そういうの聞いたらダメだよね」


 慌てて引っ込めつつも興味を隠せない様子のトウカに、くす、とアオは笑みを溢した。「結構知られていることだから、問題ないわよ」と言い、全員の顔を見回す。

 フジサキは話を聞きたそうに頷き、岸は「気になる」と催促してくる。


 悲しくもあるが、懐かしい、大切な思い出でもあるのだ。それをこうして興味を持ってくれる人がいることに、アオは喜びを感じた。


「みどり――えっと、ベースのね。彼女の親が音楽教室を経営しているのよ。ほら、特定の楽器を教えてくれるわけでなく、子供が音楽に慣れ親しむためのね」


 今はすごく大きな会社で、事務所とか、他にも色々なことをしているけれど。そう言ってアオは一瞬、視線を落とした。

 記憶のふちをなぞるように、彼らのことを思い出す。


「……小学生の時、ギターのクロと私が同じタイミングで通い出したのが始まりだったの」


 先生の娘であるみどりも教室に出入りしていて、同い年の三人はすぐに仲良くなったのだ。小学校は別だったが、中学校は同じ学区というくらいには近所。自然、教室がない日も一緒に遊ぶことが増えた。


「それから中学に入る直前にきぃくんとアカネが入ってきて、彼らとも仲良くなって。みんなで音楽をやりたかったから、バンドを組むことにしたのよ。気づいたら有名になっていたわ」


 アオたちの才能に気づいたみどりの親が、裏で色々と動いていたのかもしれない。今でこそそう思うが、バンドを組むことも、ファンが増えることも、大きなライブハウスやテレビに出て演奏することも、当時はとても自然に感じていた。

 それくらい、楽しい日々だったのだ。

 戻れない場所であり、もう戻りたいとは思えない場所でもある。それでも、アオの中には、あの頃への憧れのようなものがあった。そのことに、今気づいた。


(結局、青春に手を伸ばさずにはいられないのね)


 そっと息を吐いて、アオはにこりと笑った。

 彼女が今大事にしたいのは、この場所だ。

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