第13話 岸のおやつ(後編)
岸の能力を知り、アオはとても驚いていた。
〈能動型〉の方の能力については、思い当たることがあった。普通ならしないような匂いがしているときは、岸が楽器を演奏しているときか、演奏した後だった。そういうことだったのか、という納得の方が大きい。
彼女の驚きは別のところにあった。複数の能力を持っているということは勿論、それが〈受動型〉と〈能動型〉の両方で、更に二つの能力が互いに関係しているというところに。
普通は自分のために使うことができない〈能動型〉の能力を、彼は使うことができるのだ。
しかし、アオは更に驚くことになる。
「おれは、食事なしで、生きられる」
「……っ!」
「それはもう、人じゃ、ない」
ゆえに、一日に少なくとも一食は普通のご飯を食べるよう言われているのだと、岸は語った。
食事は人間にとって重要な要素だ。それを必要としないということは、人が普通に持っている感覚を失うということに等しい。現代社会で生きていくには、それはあまりに致命的だ。
(……待って。岸さんは、出した音が、と言ったわ)
じっと岸の顔を、その口を見つめる。彼が少しだけ居心地悪そうに目を逸らしたことに気づき、アオは慌てて視線を和らげた。
スタジオで能力の話をした後、フジサキから聞いたことを思い出す。
彼は、音によって、そこに込められた意味によって、見えるものは変わると言っていた。二年前の曲とトウカの詩につけた曲が似た景色だったのは、どちらの曲も、空をイメージしたものだったからだ。
……話すということは、音を出すということだ。
しかし、岸が話しているときに匂いを感じたことはない。それは、匂いを出していないからだろうか? そうは考えられなかった。
能力の発動条件は曖昧になっているものが多い。
アオは、自分の声が歌声にならないよう、できるだけ淡々と話すようにしている。「うたっているような話し方」という表現があるように、抑揚をつけてしまえば、歌声と判断される可能性があるのだ。
たとえば岸は、無臭の匂いを作り出しているとしたら。
「岸さんの話し方は、能力の制御……?」
思わず呟く、岸の内面に触れるような言葉。
その結論に辿り着きながら、アオは、自分と岸が似ていることに気づいた。
二人とも自身の能力によって、簡単に社会の枠からはみ出すことができてしまう。普段から意識的に能力に気をつけているのだとしたら、なおのこと。
だから彼は自分のことを気にかけてくれるのだと、納得した。
岸は、しかし、嬉しそうに頷く。
「色々、試した。昔は制御できなくて、太ってた」
一つずつ言葉を置いていくような話し方とは対照的に、太っていたことを表すようなジェスチャーをする岸。
そのおちゃらけた様子がおかしくて、アオは、ぷっと吹き出した。
ようやく笑った、と岸は安堵した。
アオの笑顔は、心からのものとそうでないものがわかりやすい。本人は意識していないのかもしれないが、それはこの短い付き合いでも気づけるほどだ。
それにはトウカも同じ考えなのか、彼女は、常にアオを笑わせようとしている節がある。アオはそれに笑ったり笑わなかったりと反応はまちまちだが、二人が楽しそうなのは明らかで、それが微笑ましかった。
(……女の子は、まとめてみんな、笑っていれば良い)
能力を持つことで困っている人を救いたい。岸はずっと、その思いを持ち続けてきた。
超感覚研究所は、能力を上手く利用するための研究だけをしているわけではない。
能力によって生きにくさを感じている人に、手を差し伸べられるように。そんな研究をしている部署に入りたいと、岸は思っている。
そういう意味で、アオのことはとても気になるのだ。
時間はあるようなので、岸はもう少しアオと話すことにした。彼女の恐怖を知るためには、必要なことだ。
「高校は、軽音部だった」
「それはまた……」
気遣うようなアオの視線に、岸は頷く。
「音楽は好きだ。自分だけなら、能力も、気に入ってる」
もとより楽しいことが好きな性格であった岸にとって、この能力は面白いものでしかなかった。それは今も変わらない。
しかし、他人が関わるとなれば、話は別だ。
そもそも他人の能力を詮索することはモラルに反することであり、更に、岸が通っていたのは能力持ちに対するサポートの厚い高校。
それでも、嗅覚に影響を与える能力は異質だ。すぐにそれとわかり、その発動方法は単純すぎるがゆえに制御が難しい。身も蓋もない言い方をすれば、岸は、周りの生徒に避けられていたのだ。
そういった生徒は他にもいた。心や体に影響を与えるような、感覚の拡張として捉えられる超感覚から大きく逸脱した、強力な〈能動型〉の能力を持つ生徒たち。
彼らの多くは、周りの視線に耐えきれず、学校を辞めていった。岸はそれを、目の前で見た。
だからこそ、そういった人を救える環境を作りたいと、強く思う。
「確かに、生徒を〈受動型〉と〈能動型〉でクラス分けするだけでは、届かない部分がたくさんありそうね」
アオの言う通りだ。大抵の幼稚園や学校は、能力持ちを受け入れるためのクラスが用意されている。……そして、それだけなのだ。
サポートが厚いというのは、他の――成績に関わる評価方法の考慮や、研究所との連携具合などを挙げているに過ぎない。そういったサポートも重要だが、それ以前の問題だと、岸は思っている。
「能力の発動は、必然。本来は、上手くはまるところが、あるはず」
「……」
真剣に、それでも穏やかな表情で話を聞いていたアオの顔が、一瞬固まったように見えた。
やはり彼女は、表情を取り繕うのが下手だ。それはきっと、自分の内面を表現することに長けているからだろう。歌をうたう人間として、そうあるように生きてきたから。
(だとすると、やはり……)
歌をうたう自分が、歌を聞いた相手に自分を忘れさせるような能力を持ってしまった、理由。
それを知ることが、アオにとっての恐怖なのではないかと、岸は見当をつけた。他にもあるかもしれないが、今日はこのことに気づけただけで十分だと言えよう。
それとなく、話の方向を変える。
「ここは良い。自由に、できる。おれにとって、上手くはまる場所だ」
アオがそれに乗らないわけがなかった。
「そうね。最初に岸さんの演奏を聞いた時、本当に自由な人だと思ったわ。……あの時は確か、雨上がりのお日様の匂いがした」
「塩分摂取」
「……本当に?」
疑わしそうな視線を向けてくるも、彼女の瞳には楽しそうな光が戻っていた。
岸は立ち上がり、パーカッションコーナーへ。
「おやつに、しよう」
そう言って、タトトン、と打楽器を鳴らし始めると、サー室内に広がる甘い香り。岸はその匂いを吸い込み、サラダだけで満たされていなかった腹を満たしていく。
「ちょっと、それって、私は食べられないじゃない。こんなに美味しそうな匂いなのに……」
ひどいわ、と膨れる彼女に、岸は意地悪に笑ってみせた。
アオは驚いた風に目を丸くさせ、それから、ふい、と顔を背ける。
「……オーケー。良いわよ。最近食べ過ぎだったし、ダイエットと思うことにするわ」
その横顔は、とても、普通の女の子に見えた。
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