三章 それでも、うたうことをやめられない

第12話 岸のおやつ(前編)

 大型連休が明けて、日中の気温が夏のそれを思わせるようになった。


 空調の効いていない渡り廊下を、岸は足早に抜ける。一号棟と二号棟の間を繋ぐそこはちょうど日当たりが良く、暖められた空気に蒸されているような気分になった。

 二号棟に入れば、まとわりついていた生温い空気は少しだけ薄れる。

 目的の教室は、すぐ突き当たりだ。


「岸さん?」


 教室に入り空席を探していると、突然そう呼ばれた。辺りを見回すとすぐに、片手で頬杖をつき、もう片方の手をひらひらさせたアオの姿が目に入る。


 こうして見ると、彼女は存在感が強い。容姿もさることながら、持っている雰囲気が、どことなく周りと違うのだ。

 それが元有名人だからなのか、能力によるものなのか、はたまた別のものなのか。岸に判断はつかない。


 近づくと、アオは長椅子に広げていた荷物を寄せ、そこに座るよう合図した。


「良い、のか?」

「勿論よ。岸さんが嫌でなければ、だけど」

「勿論」


 同じ言葉で返すと、彼女はくすりと笑った。

 岸はその隣に腰を下ろし、鞄からノートとペンケースを取り出す。


「それにしても、講義が被っていたのね。前回は気づかなかったわ」


 これから始まる講義は一般教養科目だ。学部が異なる二人でも、被る可能性は大いにある。

 彼女が驚いているのは、連休前の講義で、岸を見つけられなかったことにであろう。この人数であれば、大きめの教室とはいえ、知り合いを見つけるくらいのことは簡単にできる。


「連休明け。人、減る」

「なるほどね。五月病かしら」


 しかし実際のところ、前回までは今日の倍近い人数がいたのだ。アオは周囲を見渡して、「確かに減っているわね」と頷いた。


 彼女は、岸の特徴的な話し方にも気にせず、その意味をすぐに読み取る。

 比べることは良くないと思いつつ、去年のトウカを思い出してみる。彼女とスムーズに意思疎通を図れるようになったのは、夏を過ぎた辺りではなかったか。


 脳内で補完できる情報量が多いということは、その分、色々なことを自己解決できてしまうということだ。

 それは基本的に歓迎されることではあるが、能力持ちにとってはその限りでないと、岸は思っている。


 連休前、アオの能力について知った。

 きっと彼女は、話したことよりもずっとたくさんの悩みや苦しみを抱えているのだろう。そう思うと、手を伸ばさずにはいられない。


 講義が終わると、昼休みだ。少し話せないだろうかと、筆記用具を鞄にしまう彼女を、岸は昼食に誘うことにした。


「アオ、昼は」

「一緒に食べましょう。火曜は二限で終わりなの。売店で何か買って、サー室で食べるつもりだったのだけど……」

「そうしよう」


 アオは頷き、階段の方へ向かう。

 その後ろ姿を見ながら、岸は心の中で首を傾げる。一年生にしては取っている講義が少ないように感じたのだ。この前スタジオに入った日も、少なくとも四限と五限には出ていなかった。


「あんまり取りたい講義がなかったから、のんびり通うことにしているだけよ」


 その疑念を感じ取ったのか、階段の手前で振り向いた彼女はそう言った。何となく後ろから聞くのがはばかられて、岸は横に並んで階段を下りる。

 アオは話を続けた。


「……本当は超感覚学科に入りたかったのよ。そのための勉強もしていたのだけど、途中で怖くなってしまって」

「怖い?」

「そう。超感覚について詳しく知ったとき、自分の能力と向き合えるかどうか、自信がなかったの」


 だから今のままでいる方が良いわ、と笑う彼女。階段のすぐ横にある扉を開けると、ふわりと短い髪が揺れた。

 眩しそうに目を細めたアオには、夏の日差しがよく似合っている。


(……恐怖、か)


 アオの能力は、彼女自身に牙を向けている。現状を維持できるのなら、それは良いことなのかもしれない。しかし。


(無知は、危険だ。怖いなら、おれが……)


 能力は時に、思わぬ結果をもたらすことがある。先日のフジサキがいい例だ。彼は能力で見た景色に絶対の信頼を置いているが、アオの歌そのものを思い出すことはできていなかった。

 他人の〈能動型〉の能力が、アオの能力に影響を及ぼす可能性だってあるのだ。


 三号棟の一階で軽食を買い、そのまま地下へ。予想通り、サー室には誰も来ていなかった。


「ねぇ、学科でどんなことしているの? ゼミとか、あるのでしょう?」


 のり弁に箸をつけながら聞いてきた彼女に、ぽつりぽつりと話して聞かせる。どんな講義があるのか、自分が受けた講義の内容。

 他人のことを知りたいのなら、自己開示するのが一番早い。そうでなくとも、同じサークルのメンバーとなったアオには自分のことを話すつもりだった。


「ゼミは、超感覚研究所で、実習。就職も、その予定」

「研究所ね……。私もお世話になったわ」

「おれもだ」

「え……?」


 超感覚研究所とは、超感覚が一般に認知されてから現在に至るまで、その研究を一手に担ってきた機関。世界各国に拠点が置かれ、日本国内にもいくつかある。

 この大学と連携している多摩市のそれが、日本での本部だ。

 そことは別に、岸は小さな頃から通っていた研究所がある。彼にとっては、第二の実家のようなところだ。


「少し、変な能力」


 早々に食べ終えたパックサラダの蓋を閉め、その表面を指の腹で叩く。ピアノを弾くような指使いだが、出てくるのは、「ポン」と「トン」の間の間抜けな音。

 それが小気味よいリズムを刻み始めた瞬間、サー室内に肉の焼ける匂いが広がった。


「えっ、焼肉の匂い……?」


 突然のことに驚くアオ。その表情を見て、岸は口の端を持ち上げた。


「〈能動型〉、音を、匂いに。そして――」


 正確には、出した音が、嗅覚に影響を与える能力だ。岸がイメージして叩いた通り、アオに「肉の焼ける匂い」を感じさせた。


「おれは今、肉を食べた」

「……。ごめんなさい、意味がわからなかったわ」


 申し訳なさそうなアオに、岸は首を振った。話し方に関係なく、これは、知らなければ想像もできないようなことだ。


「〈受動型〉、匂いを、栄養に」


 先程と同じような紹介に、今度こそアオはあんぐりと口を開けた。それでも理解はしたのか、溜め息混じりに呟く。


「つまり、能力を二つ持っているということ?」

「複数持ちは、よくある」


 自己でそれが回ることは珍しいが、と、岸は心の中で付け加えた。

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