第11話 沈黙する部屋

「シャワーまでお借りしてしまって、本当にありがとう」

「いえいえ、今度はゆっくり遊びに来て。鍋パとかしよーよ」

「良いわね」


 じゃ、と言って外まで見送りに来てくれたトウカに手を振る。ペダルを踏むと、自転車はすぐにアパートの敷地外に出た。


 高架下を通って駅の北側へ走ると、アオも知っている場所に出る。真っ直ぐ行った先、甲州街道の向こう側に、大学があるのだ。

 アオは受験時に一度だけ、電車で学校まで来たことがあった。乗り換えの面倒臭さに負けて、それ以来は自転車を使うようになったのだ。

 荻窪にある家までは、環状八号線を北上すればほとんど一本道。自転車用のスペースが狭いことを除けば、坂道も少なく、快適な通学路と言えた。三十分とかからずに、アオは家に着く。


「ただいま……お母さん」


 リビングを覗くと、母親が昼食をとりながらテレビを見ていた。「お母さん」と呼んだ瞬間、僅かにその顔が強張ったことに、アオは気づいた。


「ご飯は?」

「食べてきたわ。少し部屋で寝てくる」

「そう」


 それだけのやり取りをして、アオは二階の自室へ向かう。扉を開けると、もう見慣れた、殺風景な部屋が目に飛び込んできた。

 全体的に飾り気がなく、隅に押しやったギターとキーボードだけが、浮いて見える。


「……」


 ふと、勉強机の横、広い壁だけのスペースに目を向ける。

 そこには、以前、自分たちのポスターを貼っていたのだ。バンドを抜けたときにすべて剥がして、そのままにしていた。


 机の引き出しからマスキングテープを取り出し、適当にちぎる。そして鞄の中から、スタジオで撮った写真を出して、壁の真ん中に貼った。


 写真は怖かった。

 そこに映っているのに、思い出してもらえないのだ。明らかに親しげな雰囲気であっても、「ファンの子だろう?」「確か、すごく興奮した感じでライブを褒めてくれて、私たちも嬉しかったんだよね」と言われて――。


 アオがCOLORFULのボーカルとして最後にライブをしたのは、二年前の夏だ。

 当時、何故かバンド内でブームになっていた、欧米式の挨拶をステージ脇で全員とし、聞き慣れたSEで登場する。その時の歓声が耳に心地よかったことを、アオは覚えている。


 様子がおかしいと感じたのは、二曲目を終えて、MCに入った時だ。

 いつも通りギターのクロが話していたのだが、客の、戸惑いの視線がアオに向けられていたのだ。

 何かおかしいのかしら、と思いながら、それでもアオは笑顔を絶やさない。


 COLORFULのボーカル・アオは、とびきりに明るい人間だから。


 しかし、予定では途中でアオに振られる話題が一向に来ない。そのまま三曲目、四曲目と続き、アオは確信した。


(私がうたっていることに、みんなが違和感を持っている……?)


 ベースコーラスのみどりが、ところどころでアオの歌と重なる。

 ドラムのアカネも、キーボードのきぃも、みどりに合図を送っている。


 照明のタイミングは何度もずれて、こちらに向けられる視線が減っていく。


(……どういうこと?)


 アオは焦っていた。しかしそれを、表情に出すわけにはいかない。

 いくらここまで明確に、自分の存在を無視されていたとしても……。


 そして五曲目が終わり、はやってきた。


「……? えーと、ゲストボーカルの方? どうもありがとうございましたー!」


 みどりの言葉に、どっと歓声が上がる。それがあまりにも自然で、マイクを手にしている自分こそが不自然なのだと言われているようで。


 アオは、マイクを置くしかなかった。


 ステージを出て、とりあえず楽屋に入ろうとすると、係員に止められる。実際にアオの荷物があることを確認され、訝しげな目で早く帰るようにと急かされる。

 途中ですれ違ったライブのスタッフ。顔見知りの警備員。その誰からも、不思議そうな顔で会釈を返される。


 更に不可解だったのは、会場から外へ出たときのことだ。

 あの様子では車に乗せてもらえるはずがないと判断し、アオは仕方なく駅の方へ向かった。その途中で、何人ものファンに囲まれたのだ。


 わけがわからなかった。会場では誰もアオのことを認識していなかったのに、今はアオとして囲まれている。

 混乱する頭を必死に落ち着かせて、アオは考えた。このような不思議なことが起こるなら、答えは一つしかない。


(……オーケー、落ち着きましょう。あの会場で、誰かの能力が発動したんだわ)


 すぐに思い浮かばなかったのは、アオ自身混乱していたことに加え、周りに彼女が知っている能力持ちは一人しかいなかったからだ。

 単に知らされていないだけの可能性もあるが、とにかく、アオにとって超感覚というのは馴染みの薄いものだった。

 理屈がわかれば、多少は安心できる。家に帰り、ライブが終わった頃に、マネージャーに連絡すれば良いと思った。


「あら? おかえり、碧。早かったじゃない」


 帰宅すると、驚いた様子の母親に出迎えられる。そのことにほっとしながら、アオは会場で起こったことを話して聞かせた。


「そう……大変だったわね。疲れたでしょうから、ご飯食べて、すぐに寝ちゃいなさい。真由美まゆみさんには、私から連絡しておくから」

「ありがとう。そうするわ」


 真由美というのは、COLORFULのマネージャーだ。実際にかなり疲労していたアオは、母親の優しさに甘えることにした。


 翌朝、いつも通りの時間に目覚めたアオは、リビングへ向かった。母親と父親の話し声が聞こえる。

 もう昨日のことを話しているかもしれないと思い、努めて明るい声を出した。


「おはよう!」


 その瞬間の沈黙を、戸惑う両親の顔を、アオは一生忘れることができないだろう。


「えっと……どちら様?」


 母親のその言葉に、アオの心臓がどくんと跳ねた。


 真っ白になった頭の中に、テレビの音だけが響く。日曜日の朝に両親が欠かさず見ているドラマ、そのエンディングの音だ。

 COLORFULの曲が使われているドラマ。

 オープニングも、エンディングも、挿入歌までもが書き下ろしで、母親はとても喜んでいた。


 アオの、自分の歌が流れている。


 理解したくないのに、アオの頭は勝手に回った。これが本当だとしたら、とんでもないことだ。

 それでも、理解せざるを得なかった。


 ……その夏、アオの超感覚は日本中に影響を及ぼして――。


「……」


 壁に貼り付けたばかりの写真を、指でそっとなぞる。

 少し緊張したような自分の笑顔と、トウカの嬉しそうな笑顔。

 会長も、棒立ちの岸とフジサキも、みんなが笑っている。


 昨晩は、うたえなくても、アオにとって楽しい時間だった。良い友人ができたのだと、そう感じていた。


(……この場所を守るためにも、私はもう、うたわない)

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