第10話 線路沿いサンライズ

 それから他愛のない話をした。好きな時間の話や、旅行で行ってみたい場所。アオが提案した通り、おにぎりの具について。

 アオが「私は梅干しが好きよ」と言うと、次々に答えが集まる。


「僕はしゃけかな」

「わたしツナマヨー」

「おかか」

「塩むすびだな」


 フジサキの答えに、トウカは吹き出した。笑いすぎて出てきた涙をそっと拭う。


「フジサキぃ。それ、具じゃないじゃん」

「……コンビニの塩むすびは旨いぞ」


 真面目な顔でそんなことを言うフジサキ。それが面白かったのか、あっはは! とアオが声を上げた。


「まぁ、良いんじゃないかしら。塩だって、たまには目立ちたいわよ」


 それから間もなくして、トウカたちは帰ることにした。岸とフジサキはもう少しスタジオにいるらしい。始発電車が動くまで、彼らがここで待つのはいつものことだ。


 外に出ると、東の空は白み始めていた。

 さすがにまだ肌寒いが、日の出の時間は確実に早くなっている。夏はもうすぐそこまで来ているのだと、トウカは思った。


 からからと自転車のチェーンが回り、人気のない路地に響く。

 アオは右手だけで器用に自転車を押しながら、ふっと息を吐いた。


「変な気分だわ」

「何が?」

「こうして誰かと朝まで過ごしたのは初めてなの。今は、早起きの朝ではなくて、遅寝の朝なのよね」


 そう言って、薄っすらと明るくなった前方の空を見上げる。


「ふふ、これが大学生ってやつだよ。オールした後の朝は快晴、っていうのも、相場が決まってるんだから」


 アオと同じように見上げると、トウカの目には、雲一つない空が映った。右隣に目を向けると、「何よそれ」と呆れながらも、気持ち良さそうに目を細めているアオ。


「でも考えたら、誰かをうちに泊めるのは初めてなんだよね。わたしも変な感じしてる」

「そうなの? 人付き合いは得意そうなのに」

「……そうでもないよ」


 ふーん、と不思議そうにしているアオにもう一度、そうでもないよ、と心の中で語りかける。


 学科内で、会長以外に友人と呼べるような人はいない。

 その会長を含めたサークルのメンバーについては、仲良しで大事に思っていることは確かだが、いつだってトウカは受動的だった。自ら踏み込んでいくようなことはしたことがない。


 しかしそれは、アオに出会うことで変わった。


 あの雨の日、アオはトウカの特別になった。もっとアオのことを知りたい、仲良くなりたいと願うようになった。

 そのアオと今、こうして二人で歩いている。


 環状八号線に架かる歩道橋を渡って、線路沿いの路地に入ると、すっと雑音が消えた。

 昼間であれば常に電車の音が響いている高架下も、今は静かだ。トウカは気分が良くなって、先程まで録っていた曲が口をついて出る。


「……下手ね」

「知ってるもん。だからうたわなかったの」


 アオのストレートな物言いにトウカは口を尖らせたが、それで気分が下がることはなかった。十分に自覚していることであったし、あのアオからしてみれば当然の感想だ。


「私たち、二人ともうたえないのね」


 ――うたわなければいい話だもの。


 アオはそう言ったけれど、嘘だ。トウカはそう思った。

 あの日、うたっていた彼女の笑顔は、今にも消えてしまいそうだった。

 あんな表情をするくらいに、アオは歌が好きなのだ。本当は、アオはうたっているべきなのだ。


(……わたしはずるいな)




 トウカの家は、線路を挟んで大学とは反対側、最寄りである八幡山駅からすぐのところにあった。学生街にありがちな安アパートではあるが、外観も内装も綺麗に保たれている。


「眠いよね、とりあえず寝よっか」

「そうしましょう」


 スウェットのジャージを借りて、一緒の布団に潜り込む。やはり変な感じがする、と思いながら、アオは眠りについた。


「おはよ、アオ」

「おはよう」


 香ばしい匂いにアオが目を覚ますと、トウカがキッチンに立ってお湯を沸かしていた。枕元の目覚まし時計を見ると、どうやらお昼前のようだ。


「ね、パン焼いたの。アオも食べるでしょ?」

「良いの?」

「勿論。ふふん、こういうのやってみたかったんだぁ」

「ありがとう。いただくわ」


 ご機嫌なトウカから目を逸らし、何となしに部屋の中を見回す。テレビはなく、代わりに大きなコンポーネントステレオが置かれている。その横にある棚にはぎっしりとCDが詰まっていた。

 背表紙を見てみると、アオの知っているバンドも多い。そしてその共通点には、すぐに気づくことができた。


(……インストバンドが好きなのね)


「びっくりした? そこにあるの、全部インストだよ」

「全部?」


 振り向くと、マグカップを二つ、ローテーブルに置くトウカ。


「そう。好きなんだ、インスト」

「ふーん」


 サークルでは歌詞を書いているのに、不思議なものだ、とアオは思った。しかしそれを口にすることはしない。

 好きなことと、できることが一致しない。それはよくあることだと、アオ自身がよく知っている。


 次にトウカが持ってきた皿には、トーストとスクランブルエッグが載っていた。


「テキトーでごめんね」

「いいえ、美味しそうよ。ありがとう」


 アオが改めて礼を言うと、トウカは、へへ、と照れたように笑った。


「塗るのはマーガリンしかないの、これ使ってね。それからコーヒーにしちゃったけど、へーき?」


 頷くアオ。いただきます、と手を合わせて、フォークでスクランブルエッグをすくう。ふわふわしていて、口に運ぶと、ほのかに甘い風味が広がった。

 反応を窺うように見てくるトウカに、アオは微笑んだ。


「美味しいわ、とっても」

「良かった! 卵料理は得意なんだ。オムライスとか親子丼とか、ふわふわにするやつ!」

「自炊しているのね」

「意外でしょ? 親に仕送りしてもらってるから、できるだけ節約したくて。それに、食材も送られてくるし」


 トウカの実家は東北の方だと聞いていた。遠く離れた東京で、一人暮らしをする娘のことは心配なのだろう。

 キッチンの横に向けられたトウカの視線の先には、段ボール箱と、そこから頭を覗かせている野菜が見えた。


「その分、ちょっとだけCDに使うことにしてるんだよ。家から持ってきたのと合わせたら、こんな量になっちゃった」


 茶目っ気たっぷりにそう言ったトウカに、アオも思わず、くすりと笑った。

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